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人格の力

長谷川泰子

 

 先日、ある人と話をして別れた後、とてもさわやかな気持ちになった。こころが素直になったというか、私も私なりにやっていこうというような前向きな気持になった。

 その人とは特別な話をしたわけでもない。久しぶりに会って、ここ最近の様子をいろいろと聞いたぐらいだ。それだけだけど、その話のなかにもその人らしい誠実さが感じられて、聞いているだけでこちらも気持ちが落ち着いた。ふと、こういうのが西村先生が常々言っていた「人格の力」なのだろうと思い当たった。

 西村洲衛男先生はしばしばエッセイで「人格の力」について書いている。古いものでは2006年に「心理療法における治療者の人格的要因について」というタイトルのブログがある。また、最近公開した未発表原稿の「子育てについて 心理相談の経験から」の中でも「人格」について言及している。カウンセラーの人格の力を重視して教育分析には力を入れておられた。

 人格の力、と言っても、別に高潔で立派な人格である必要はないのだと思う。むしろ高潔で立派な人格であってはいけないのではないか。誰しもオモテとウラ、光と影があるわけで、ウラや影を否定したり無くしたりすることはできない。その人がその人らしく素直であること、自分自身であることを大事にして無理をしたり背伸びしたりせず、でも自分の新たな可能性に開かれていること、そんなことが大事なのではないかと思う。

 先日話をした人もそういった要素を持った人だと思うが、確かにそういう“人格的な力”を 持った人と会うと、それだけでこちらも良い影響を受ける。人格の力だけではプロとしてカウンセリングの仕事をすることはできないが、知識や経験だけで勝負していくのも難しいように思う。

 若い頃、しばしば周りの先生方に「心理学の本だけ読んでいてもなんの役にも立たない。小説を読んだり、音楽を聞いたり、旅行に行ったり、遊んだり、そういったことが大事だ」と言われたのを思い出す。一見仕事とは関係のないような体験が“人格の力”の基礎になるのだろう。

 同じぐらいの経験がある臨床心理士の知人と、この仕事は一生修行だ、という話になった。臨床心理士の資格をとって25年ぐらいになるけれど、やっぱり今でもまだまだ修行の身という気持ちが抜けない。知識を学んだり経験を積んだりするのに終わりがないように、あるいはそれ以上に“人格の力”を高めるのにゴールはないだろう。

 

 

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