心理療法における治療者の人格的要因について

 心理療法は心理学的な理論に支えられている。心理療法論という講義があり、心理療法の理論を学ぶ。来談者中心療法、精神分析、箱庭療法、行動療法、家族療法などなどいろいろある。これらの理論を学んだ人は心理臨床の実際に当たったときこれらの方法のうちどれかを使えたらよいと思うだろう。

 クライエントが来て、面接室で会ったとき、先ず初めに傾聴することから始まる。来談者中心療法である。話が一通り済んで行き詰ると何か技法を用いることになる。行動療法や箱庭療法やコラージュ療法は導入しやすいだろう。理論を学んでいると、実際的な指導を受けていなくても、ある程度学んだことで事足りるものである。

 私はなかなかうまくいかなかった事例で、夢分析を行ったら、自分では何が何だかさっぱりわからないうちにうまく進行したことがあった。研究会で発表してみると聞いた人はずいぶん面白かったらしい。ある先生は授業に使いたいからその事例の資料を貸してほしいと後日お出でになった。尊敬している偉い先生だったので恐縮してしまった。私に夢のプロセスの意味がわかったのは何年も後のことだった。それまで何回となく研究会でその事例を使ったが、その事例について話をするたびに新しい発見があって、私はわからないことに気がつく、つまり、無意識の発見という体験をしたことで印象的であった。

 長年経って省みたとき、その事例は私自身が丁度分析を受け始めたときに行ったものであった。そのことはそれまで無意識だったのである。

 自分自身の分析経験を一応終わり、新天地を得て、そこで多くの人に接し、沢山の事例を見聞きする機会を得た。それらの事例を良く見ると、多くの人に感動を与えるようなビッグケースはいずれも治療者が分析やスーパービジョンを受けているときになされたものであることに気づいた。

 いつも人を感動させるような事例を発表する人がある。その人は常にある先生を師と仰ぎ、自己研鑽をしている。聞くと「自誓自戒」を旨としておられた。師を前にして自らを正す人であった。

 多くの人は師の指導を離れると普通の治療者になる。ビッグな事例はなかなかできず普通の事例しかない。指導者から離れると普通の治療者になり、普通の仕事になるのであろう。私もその例に漏れず、私の指導を受けている人が私よりずっとうまいと劣等感に浸っていた。私に指導をうける大学院生でも私よりずっとうまいと思うことがしばしばである。しかし、私の指導を受けていたから、立派な治療者になっていたのではないか。離れたら普通になるのではないかと思うと劣等感も抱かずに済む。

 それならば私自身がしっかりとスーパービジョンなり分析を受けていなくてはいけないことになる。河合先生はマイヤー先生についておられたが、マイヤー先生の勧めで女性の分析家にもついた方が良いということで女性の分析家のところにも通われた。ところが河合先生がその女性の先生のところに行くと決まって前の時間にマイヤー先生の車があった。マイヤー先生もその女性の先生にスーパービジョンを受けておられたのであろうと思われる。60も過ぎてなお若い分析家のところに行ってスーパービジョンを受けるというのはすごいと思う。河合先生が理由を尋ねると、自分の影はいくらでもあるとマイヤー先生は答えられたそうである。この挿話は私の記憶違いで、河合先生神話かもしれないが、私にはかけがえのない神話になっている。

 

 心理療法は本来このように治療者が教育分析やスーパービジョンを受けながらクライエントに会って行く仕事ではないのだろうか。教育分析やスーパービジョンによって自分の生き方や仕事の内容に深くかかわるとき、クライエントにも深くかかわることになり、その結果、クライエントも大きく成長する。心理療法はそのような仕組みで成り立つものではないかと思う。治療者の人格の掘り起こし、自らを省みること、その作業が進行しているとき、クライエントも自ずから変化して目を見張るような結果になるのではないかと思うのである。治療者の人格の要因はとても大きい。心理療法の理論は形だけでそこに魂は入っていない。学んだ理論や技法に魂が入るにはかなりのかかわりが必要なのではないかと思う。そしていつも手入れ、つまり、いつも自分を省みて、人格的な要因に活を入れておくことが大切である。治療者の人格に活を入れたとき、本当の心理療法のプロセスが展開するのではなかろうか。そういう仕事がしてみたいと思う。今のままでは分析やスーパービジョンが不十分であると反省する。