エディプスはどうすればよかったのか

長谷川泰子

 

 前回オオゲツヒメについて書いたが、その続き、神話つながりでエディプスの話について。

 エディプスコンプレックスについてはもちろん知ってはいたが、エディプスの神話を実際読んだときは考え込んでしまった。

 エディプスはテーバイ国のライオス王の息子として生まれたが、生まれた子供は父である王を殺すという神託があり、それを怖れた王はエディプスを山中に置き去りにするよう家来に命じる。置き去りにするのは忍びないと家来は山中の羊飼いにエディプスを託し、遠くへ連れ去るよう命じた。自分が何者か知らないままエディプスは成長し、めぐりめぐって、旅の途中でお互いそれとは知らずに偶然父と出会い、トラブルから父を殺すことになる。その後、さらにめぐりめぐってエディプスはスフィンクスのなぞ(「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足で歩く生き物は何か」というなぞ、答えは「人間」)を解き、テーバイ国の王となる。そしてやはりお互い何も知らずに母と結婚することになる。しかしその後、国は疫病で苦しめられることが続く。デルフォイに神託を求めると、前王の死の穢れのせいだという結果を得る。どういうことかと事の真相を探るうちに真実を知ることになり、絶望したエディプスは自分の目を突くのだ。

 エディプスは母と結婚することになったものの、何もそうしようと思ってそうなったのではない。何も知らずに殺した相手が父であり、何も知らずに結婚した相手が母だったのだ。何も知らないまま運命の渦に飲み込まれたエディプスに悲劇を避ける手立てが何かあったのだろうか。

 エディプスコンプレックスという言葉がある。近親相姦願望、母を愛するあまり父を殺したいと思う気持ち、と説明されるが、もう少しマイルドな言い方をすれば、自分と母との間に割って入ってくる父を排除したいと思う無意識的なこころの動き、とでも言えるだろう。さらにもう少し広げて考えれば、いわゆる“母”に代表されるような、何も言わなくても全てを理解し望むものを差し出してくれる閉じられた世界の中に留まり続けようとする願望とも言える。かつては母のお腹の中にいて、まさしく一心同体の存在だったのだ。そういった言葉がなくても通じ合える世界から、言葉を使って説明をしないと分かり合えない、まったくの他人がいる外に向かって開かれるようにと入りこんでくるものが、いわゆる“父”に代表されるものだ。“母”とは異なる秩序をもった存在と言えるだろう。

 父である王はエディプスをなんとかテーバイ国の外に出そうとする。定められた流れから引き離そうとする。しかしエディプスは結局、それとは知らずに戻ってきてしまうのだ。スフィンクスのなぞに挑戦し、それに答えられなかった者はスフィンクスに殺されることになる。エディプスは死の危険を冒してまでなぞを解いたのに、結局は神託、神のお告げ通りの悲劇の運命をたどる。危険を顧みず勇敢にチャレンジすることで英雄となり、美しい姫と結婚して新たな時代の王となるというお話はたくさんある。大人になるためのイニシエーションとして試練に立ち向かい、それを克服することで新たな始まりを得る。多くのお話はそこでめでたく終わりとなるのに、エディプスは試練に立ち向かった末、知らぬ間にかまた閉じられた世界に戻ってくることになってしまう。

 神託の力、つまりそれは生まれる前に課せられた運命、あるいは宿命とも言えるだろうが、この閉じられた世界から逃れる術はないのだろうか。

 相談に来られる方の話を聞いていると、その人が生まれる前から苦しみを背負わされていたと思えるようなケースがある。親の世代、さらにその前の祖父母の世代からの様々な問題、ひずみ、無理や無茶、その時々は仕方ないことだと無理やり飲み込んだ何かが、様々な影響をまき散らしながらめぐりめぐって今に現れてくる。クライエントにしてみると、なぜ自分がこんな運命を背負わないといけないのか、自分が一体何をしたというのかと叫び出したいほどの苦しみだろう。問題を深めて今に至る道筋をたどっていくと、結局、誰がどう悪いのかも分からなくなっていくようなケースもある。その時々でそうならざるを得ないいろいろな事情の積み重ねで今が成り立っているのが見えてきたりもする。そうするとまた、なぜ自分だけがこんなに苦しまなければならないのかという思いを抱かざるを得ない。虐待の事例では、虐待をしている親ももともとは被虐待児である場合が多いことは良く知られている。親切な対応をされれば自然と人に親切な対応をするようになる。親に育てられたように子供を育てるのも、当然といえば当然だ。では親からつらく当たられた人がそこから逃れることはできないのか。課せられた運命、宿命から逃れることはできないのだろうか。「親のようにはなりたくない」そう繰り返し訴えるクライエントも多い。

 エディプスは目を突いた。何も見ないことを選んだ。見続けるにはあまりにもつらい事実だった。悲劇が避けられなかったとしても、それを悲劇で終わらせないためには、目を開け続けなければならないのかもしれない。何もできなくていい、ただ問題を見続けること、目をそらさないこと、否定しないこと、本当のことを知ること、それが閉じられた世界から一歩を踏み出すために必要なのだろうかとも考える。臨床心理士の仕事の重さを思う。

 

 

 

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