対話的心理療法 セミナー資料

 「セミナー資料 対話的心理療法」というタイトルで保存されていた文章です。最終更新日は2015年1月23日です。

未発表原稿として「対話的心理療法 対話的話し合いの心理療法」という文章をすでにアップしていますが、同じころに作成された資料かもしれません。また、このセミナー資料と同時期に書かれたもので「私の夢分析-対話的心理療法」(2015年2月24日)というブログもあります。

 資料の途中、「与那国に行ってきました」(2015年1月11日)のブログにも触れられています。これらの文章もぜひお読みください。

 

 

対話的心理療法

檀渓心理相談室 西村洲衞男

 

1 対話的心理療法とは

無意識は意識、自我より賢いという原理に立っている

対話的心理療法は、無意識の内的なプロセスに添って生きる道を開いて行くものです

無意識の深層には人を支える本当のいのちのプロセスがあり、その内的な心の導きに従って生きると人生が啓かれ、何となくうまくいくのです。

内的な自分との出会いが良くなると、外的に出会いが良くなるという原理に基づく。内界と外界の呼応性-シンクロニシティです。

内的な自分、内なる神との対話を進めて心の発展を図る。

 

2 従来の心理療法

従来の心理療法は、無意識は自我と対立し、意識の活動を阻害すると考えている

浄化法-内面の苦しいことを吐露することによって心を清める。この際倫理の関与が必要

無意識の解明-夢からの連想やや自由連想法による無意識の心の解明。

元型的布置やコンプレックスの解消や影の取り入れ、投影の行き戻し

これらの方法は、自我が何らかの方法で無意識からの影響をなくし、自我の自律性を保とうとする方法であった。

 

3 対話的心理療法の方法

内なる自分の心はイメージとなって現れてきます。遊び、箱庭遊び、夢などです。

箱庭や夢に現れた心を分析して見出す

それを探り出すにはその人の生活状況が過去現在にわたってできるだけ詳しくわかった方が良い。

探りだすものは、Clientが現在当面している問題で、それはClientの真実です。人は真実に至ると安心し、生きる意欲が出てくるのです

そして、問題の解決はまた内的なイメージを湧出する心に聞きます。その答えは次の夢や箱庭に出てきます。言い方を変えれば、これは他力本願ですし、自然治癒でもあります。

夢を見ない人、箱庭の作れない人は深層の心を省みることをしていないのではないでしょうか。

詩人阪田寛夫は次のように言っているそうです。

「詩とは傍受であろう。・・・幽かな<存在者>が、この世に絶えず送り続けている鈍い通信を、目を凝らし耳を凝らして傍受する」

この幽かな存在者は、老子の道に相当するものではないか(老子第21章)。

微かなこころの声、小さな声、記憶に残らない意識、動物としての人が昔持っていた意識、これが人を確かなところに導いて行くと思われる。

動物的な心で生きる生き方は、禅にあります。「赤肉壇上一無衣の真人」(臨済録)

(以下の文章は、ブログ掲載のために書いたもので、今回の中野セミナーの補足資料としました)

先のブログの「与那国に行って来ました」で、与那国の人々はマチリで巫女である司を介して神のお告げを聞いていると書きました。その後、与那国のマチリについてインターネットで調べてみると私の受け取りと違ったことが書いてありました。現在の与那国の公式の説明では久部良のマチリは異邦人の退散を祈願するとことになっています。その他の地区のマチリも全て神への祈願、つまり人から神へのお願いになっています。今では与那国の人々も神の言葉、宣託は聞くことは無くなっているのです。これが信仰の現代化ということでしょう。

昔々その昔神と人は話すことができたと考えられています。しかし、今は神と人との隔たりが出来て、司を介して神と話をするようになりました。現代の私たちは巫女の仲介もなく、神に直接祈願することだけになっています。

本来は人から神への祈願ばかりでなく、神から人への宣託もあったはずです。神の宣託なんぞそれは遠い昔のことで今はありえないと人々は考えています。宣託を聞かないで祈願だけというのは神との関係で不公平だと思いませんか。祈願をするなら宣託も聞かねばならないのです。

古代ギリシャでは神の宣託が告り伝えられました。エディプスは「父親を殺す」と神に告げられ、大きくなって父親を殺し、母親と結婚して災いを引き起こしました。モーセは神に呼び止められ、人々を故郷カナンの地に連れて行くように告げられ、十戒をはじめ生活の規範を授けられました。イスラム教では人々の求めに応じてムハンマドが神憑りになって告り伝えた言葉が記され、それがコーランになったのです。昔、聖者は神の声を聞いていたのです。そこに神とともにいる生活があります。

日本のアイヌの人々は神と共に生活していましたが、飢饉の時に手だけ差し出して食べ物をくれる女神の顔をひと目見ようとして、女神の手を引っ張って女神の顔を見ようとしたので、それ以来神が近づかなくなったという話があります。しかし、日常生活において道を通るにも木や山の神に挨拶して通してもらうという、神とともにある生活が伝えられています。そのような生活は今も私たちの毎食時の「いただきます・ごちそうさま」に残っています。

古事記は神様の話、つまり神話ですが、下巻の人間の話になると夢を通して神の導きを得ることになります。日本人にとっては夢が神とのつながりとして大変重要だったようです。そして夢に関係のある場所として初瀬は最も重要で、そこに長谷寺が建てられ、観音菩を安置して夢を授けてもらうようになったのではないでしょうか。夢は昔神の導きを聞くコミニュケーションサイトでした。

古代ギリシャでは医神アスクレピウスの信仰が盛んで、患者は神殿で夢を見て治療を受けていました。日本と同じく夢によって神の救いを求めていたのです。

ユング派の分析家C.A.マイヤーは古代ギリシャの夢による治療を研究して「夢見ることは治ること」だという見解に至りました。それは夢分析の専門家には通じますが、一般には受け入れられません。そこで私は夢を詳しく調べ、夢に出てきている心の動きを見出して、さらなる神のたましいの動きを導き出そうと思うのです。これが私の対話的心理療法です。ここで言う対話とは神との対話、夢を送り出す深層の心との対話ということです。

それは日常の生活では心のなかの声の最もかすかな声に耳を澄ますということです。心のかすかな声に耳を澄ます態度で箱庭を作ると何かが表現され、心が整理されていくのです。

それが現代の神とともにある生活です。

 

 

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