たましいといのち

 「たましいといのち」というタイトルで保存されていた文章です。最終更新日は2019年5月8日です。ブログ用の文章として書かれたと思われますが、旧ホームページにこのブログはありません。同時期に書かれたもので「私の神様はたましいです」という文章があり、同じようなことが書かれている部分があります。この「たましいといのち」を書き直して旧ホームページに出されたのかもしれません。また、旧ホームページに2017年4月に掲載されたもので「たましいのいのち」というとてもよく似たタイトルのブログがありますが、これは西村先生がお姉さんのことを書かれたもので内容は異なります。

 

 

たましいといのち

西村洲衞男

 

 「一寸の虫にも五分の魂」がある。もちろん私の中にもある。私の魂よりも伊勢神宮にましますたましいがはるか高みにあって崇高なたましいであるように私は思うが、たましいに優劣はないはずだ。たましいには名前がなく分別がない。伊勢神宮にましますアマテラスのたましいと虫の中にあるたましいに元々区別はなく、同じたましいのはずである。

 たましいに区別はつけられないけれど、アマテラスのたましいというものを人々は考える。私ももちろん考える。

アマテラスのたましいは日本の伝統的神様のたましいで日本人にしか通用しない。日本人のたましい、韓国人のたましい、中国人のたましい、ドイツ人、フランス人のたましいなど区別が出てくる。それは長い歴史の中で作られたもので民族や国、地方や家にある性格みたいなものである。大和魂のようないのちは性格づけられたもので、名前がつけられるからたましいより一層個別化している。そのようなたましいは大和魂に類するものだからたましいと名付けず、漢字の魂と表現した方が良いのではなかろうか。

 本当のたましいはすべての生き物に普遍的にあり、しかも、生き物でない土や水や火や風にもある、最も基本的で普遍的な存在である。そのたましいには区別がない。

 旧約聖書の神、モーセの目の前に現れた神、その神の名は「私は在る」という神である。存在するものすべての中にあるもの、名前を付けたり偶像化されないものである。

 イスラム教ではアッラーを偶像化してはいけないという。偶像を超えたものだからである。

 仏教では偶像を作る。大日如来を仏として礼拝する。ところが大日如来の仏像は瞑想している。瞑想する仏陀の像で、仏陀の教えは瞑想によってしかわからないものではなかろうか。

 仏の性質は仏性として述べられ、無量光と無量寿に分けられる。無限の光と無限のいのちである。無限のものだから捉えることができない。

 仏教では仏のことを真如ともいう。真如は無明で無名で無分別だから言葉に表すことができないが、エネルギーに満ちている。だから仏とはいのちと考えても良いと私は思う。私は学者ではない。心を扱う実際家である。お坊さんではないが悩める人と心について考える実際家であるから、宗教学や哲学からのややこしい説明を排して実際的な知識を使いたましいやいのちとかかわらねばならない。学者の難しい説明は実際には役に立たない。

 だから、いろりと仏教書などを読んで自分なりに役に立ついのちの心理学的な扱い方を考え、その結果、行き着いたところが、生きものすべてが持っているたましいといういのちであった。たましいは見ることも触れることもできない、どこにあるかもわからない、そして渡したにいのちを与えてくれるものである。意識を超えた存在である。

 たましいといのち、それを同じように使う。たましいは「ある」ものだから無量光、いのちは無量寿に近い。その二つをまとめると真如と言ってもいいのではないか。

 

 

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