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他者の声

 本を読むのは好きだが、読書量が多いわけでもなく読書家でもない。ただ気に入った小説やエッセイは繰り返し繰り返し何度も読んでいる。話の展開や結末がすっかり分かっていてもまったく飽きない。その作品の世界に浸ることを楽しんでいるのかもしれない。

 仕事に関する本、勉強のための本だと、気に入った小説やエッセイほど繰り返し読むことはないが、それでも何度も読み返している本はある。大学院時代に聴いた夢分析についての講義で、必読の書だと言われてはじめて手にした「古代人と夢」(西郷信綱著 平凡社)もその一冊だ。

 西郷信綱氏は主に古典文学を専門とした国文学者で、古事記に関する研究などでも知られている(「古事記注釈」第一巻~第八巻 ちくま学芸文庫 などの著書がある)。「古代人と夢」は数々の古典文学から古代の人々の夢に対する姿勢・考えを明らかにし、彼らの精神性を読み解こうとするものだ。「夢は個人の神話である」「私の試みようとするのは、(中略)古代人の夢を神話研究の一環として考察することにある」と著者自身が本の中で記しているが、こういった考え方はユング派の夢に対する姿勢と共通するところがあるだろう。河合隼雄先生も、複数の著書の中でこの本について触れていた。

 先日、またこの本を読み返してみようと思い立ち、久しぶりに本棚から取り出した。仕事に関わるような本では、時間をおいてから読み返すと、以前は気がつかなかったところに興味を持ったり、新たな発見を得たりすることがある。臨床心理士としての経験が深まることでやっと見えてくること・分かることもあるのだろう。今回、改めて「古代人と夢」を読み返して「魂は自己の中に棲む他者である」という一文にハッとした。今回読み返して見て、やっと発見できた文章である。

 この本の中に「夢と魂」という一節があり、古典文学において夢と魂がどのような関係にあるかを示した上で、魂(たましい)とは何かについて説明がなされている。昔の話には睡眠中に魂(たましい)が外出したり旅に出たりする話がたくさんあるらしい。有名なところで、源氏物語において源氏の恋人である六条御息所の魂(たましい)が睡眠中、つまり自分でも意識していない間に身体を離れ、源氏の妻である葵の上にとり憑き、相手をさんざん苦しめるという場面が例として挙げられている。また、「たまげる」は「魂消る」と書くのだそうで、ぼんやりしていて魂が抜けているような状態の時に急に驚かせたりすると、その魂がうまくもとの身体に戻れなくなると考えられていたからこその言葉だという。沖縄では今でも「マブイグミ」という言葉があり、マブイというのは魂(たましい)を意味する言葉だが、何らかのきっかけで落としたマブイをもとの身体に組み入れることを指すのだという。

 つまり魂(たましい)とは自分でその働きをコントロールできるようなものではなく、独自の動きをするものと考えられてきたようなのだ。西郷氏は「魂は、自己の中に棲みこみ、その生命を支える独特な力であると同時に、自己にとっては他者でもあったことになる。私が魂を持つのではなく、私は魂の保管場所なのである」と述べている。私の身体の奥深いところに棲みついているもの、私の意のままにはならないが、それによって私が支えられ生かされている、その何かが魂(たましい)なのだという。

 ユングはこころの補償作用を重要視した。バランスを欠いたところがあると、必ず無意識がそれを補う働きをする。この考えが出てきたのには、ユングが社会的に成功しそれなりの地位を築いた後に急にうつ状態に陥った男性患者を何人も診たことが関係している。ユングはこういった患者の夢を聞き、無意識的な働きを探り、社会的・表面的な成功の裏にある、精神的・内面的な生活の貧困さを見出した上で、アンバランスな状態を回復させるために問題や不調が現れるのだと考えた。

 こういった無意識の働きは全体のバランス、全体のまとまりを維持するために必要なものだ。しかし本人には表面的にはスムーズに進んでいる現在の生活を脅かされたようにしか見えない。いちど立ち止まったほうがいいという無意識の声は自らの中から出てきたものではあるが、理解できない全くの他者の声として聞こえる。しかしこの私の意識を超えたところから来る声こそが、「自己の中に棲みこみ、その生命を支える独特な力」であり、古来「魂(たましい)」と考えられてきた何かによる働きだと考えることができるだろう。

 カウンセリングはこういった「自己の中に棲む他者」の声に耳を傾ける場でもある。自らの中に棲むたましいの声を正しく聞き分け、改めて考えてみることで、新しい方向性が見出されるのではないか。

 

 

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