スタッフとの勉強会で、ユングの高弟ノイマンの本(「意識の起源史」 E.ノイマン 林道義訳 紀伊國屋書店)を取り上げている。先日の勉強会で扱った部分に、ノイマンがユングの「影」の概念について説明したところがあり、それがとても印象的だった。
「影」というのは、大雑把に言えば、自分では受け入れることが難しい人格の一側面のことである。多くの場合、本人自身には軽蔑すべき、恥ずかしい、悪い性質のように見えて、自分の一部であると認めることが難しいものだ。
社会的地位が高く、他の人から尊敬を集めているような人がいたとする。表では求められた役割を果たさなければならない、皆の期待に応えないといけないと、それなりの態度を取っていたとしても、人間である以上、様々な欠点や未熟さがあるのも当然のことだ。例えば怒りっぽかったり、あるいは本当は自信がなく気が小さかったりするかもしれない。それを自分の一部として受け入れればいいのだが、恥ずべきところとして強く抑え込んだり、自分にはそんなところはないと否定してしまったりすると、そういった部分が人格の「影」なり意識しないところで大きな力を持つようになる。普段は冷静で穏やかな人がちょっとしたきっかけで感情的な言動をしたり、攻撃的な振る舞いをしたりする。極端な場合は多重人格的な状態に陥り、気がつかないまま影の人格に支配され、思わぬところで我を忘れて人が変わったような振る舞いをする。
ノイマンは影のような闇の部分は「個性の必須要素」だと影の重要性を指摘している。影がその人らしさを表わし、唯一無二の存在として成り立たせているのだという。影として現れてくるものは、自分が良いと思い簡単に受け入れられる部分とは対立する。だからこそ悪に見える。しかしそういった闇・影の部分も含めて私という全体が成り立っているのだ。その微妙なバランスが人間的な深みを生み、その人だけの魅力を発することになるのだろう。
ノイマンはまた、「人格の闇の側面を取りこむことによって、初めて、人格はいわゆる防衛力を持つ」とも指摘している。闇にひそませておきたいものを自分の一部だと認めること、聖人君子を目指すのでなく、自分に欠点があり悪に見えるものがあると知ることが自分を守るのだという。知らないもの、気がついていないものをコントロールすることはできない。自らのうちの闇や悪を知りそれに触れることで、闇や悪の暴走を抑え、適当なブレーキを掛けることが可能になる。また内なる闇や悪を知っているからこそ、外の世界でも悪が近づいてきたときに、危険なものだと察知し適切な距離を取ることができる。
影は自分にとって隠しておきたい人格の闇の部分ではあるが、自分の中に確実にあるもので消すことも無くすこともできない。なんとか抱えて一緒に生きていくしかない。自分にとっては悪であり敵であるように見えたとしても、そこに大きな宝が潜んでいるのだ。自分のなかにあるものをただ知るだけでいい。簡単なようで難しいとも言えるし、難しいようで簡単だとも言えるかもしれない。
