当たり前を当たり前に

長谷川泰子

 

 ある本を読んでいて、そこに引用されていた文章に興味を持った。ずいぶん昔、1960年代の論文からの引用である。せっかくならちゃんと全部を読んでみたいと思ってネットでいろいろと調べたところ、名古屋大学の図書館にその論文が掲載されている雑誌があることが分かった。名大なら相談室から近い。早速行ってみた。

 改めて読んでみて、あれっと思った。私は引用された文章だけを読んで、きっとこういう方向性でこんなことが書かれているに違いないと考えていたのだが、どうもそれは自分に都合のいい思い込みだったようだ。自分の予想とまるで違うことが書かれていたわけではないのだが、ニュアンスは確かに異なる。ちゃんと手間をかけて全部読んでおいてよかったと思った。きちんと確認しないまま、人にべらべらしゃべって誤解をばらまくようなことにならずにほっとした。

 “切り取り”というのがあるのだそうだ。ネットなどで何かを紹介する時に、ある一部だけを切り取り、それを提示する。もちろん何かを紹介とする時に、その何かについてすべて語りつくすことはできないから、どうしても一部を見せたり要約を示したりすることになる。愛に溢れた親切で丁寧な切り取りや要約、解説などもあるだろうが、中には不親切なもの、手抜きのもの、不十分なもの、悪意あるもの、などもあるだろう。また逆に、どれだけ上質で分かりやすい要約であっても、受け取る側に思い込みや偏った見方があれば、伝わるものも伝わらなくなるのも事実だ。

 相談室には例えば「不登校」「摂食障害」「ひきこもり」などの問題を抱えている人がやってくるが、同じ「不登校」という問題を抱えていたとしても、それはその人を説明するたくさんの事柄のほんの一部の切り取りでしかない。不登校と一言で言っても、そこに至るまでの道筋はそれぞれ全く異なり、背景も対応の仕方も一人ひとり全く異なる。切り取ってひとくくりで考えることはできない。だからこそ、カウンセリングでは来談された人の話を時間をかけて聞いて、はっきり見えるところだけではない、見えないところのこともあれこれ考えることも大事にする。

 一人ひとりみんな違う、当たり前のことだが、なかなか当たり前にならない。その当たり前を当たり前に大事にしていくのがカウンセリングだろう。

 

 

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