向き合わない

長谷川泰子

 

 電車に乗っていたら向かいの席に20歳後半ぐらいの女性が座り、座ると同時にかばんから一式取り出して編み物を始めた。何を作っているのかは分からないが、編み棒を使って一心不乱に編んでいる。その棒の動きに引き込まれてなんとなく目が離せなくなってしまった。規則的でリズミカルな動きを見ているとこちらも無心になり、ただ見ているだけで気持ちが安らぐような気もした。

 向き合っている相手とただ対面し続けるのは気まずいものだ。いくら心を寄せ合っている恋人同士でも、見つめあい続けるのは緊張を感じる。電車の座席など、知らない相手と対面しないといけない時は視線をそらせるのが一種の礼儀のようなものだし、知り合い同士で向き合うような状況であれば、たいてい積極的に会話をしようとする。話の内容に注意を向けることでお互いが正面から向き合うような状況を避けようとしているのだろう。思春期の女の子など、仲の良い友人でも一緒にいるときに話が続かなくなったらどうしようと心配する子がいるが、話ができないとお互いを隔てる何かがなくなったような、素の自分がさらけ出されるような、妙な緊張感や緊迫感を意識せざるをえなくなるのではないか。黙ったまま相手と一緒にいられるようになるにはある程度の自我の強さがいるようにも思う。

 喫茶店に行くと、一緒に来て同じテーブルに座っていてもお互い何も話さず、ただ黙って新聞や雑誌などを読みながらコーヒーを飲んで、それだけで帰る2人連れ(おそらくは夫婦)がたくさんいる。最近だと、お互いスマホの画面を見ているだけで、何か読んでいるのかゲームをしているのか分からないが、やはり会話をせず、それぞれが勝手なことをしながらコーヒーを飲んでいるだけ、という人たちをよく見る。昔は2人で一緒に来て何も話をしないなんて、こんなところでわざわざ新聞読まなくても、などと思っていたけれど、ああやって向き合わずにいることも長く一緒にいるためのコツなのかもしれないとも思うようになった。子どもが大きくなって自立していった後に夫婦の関係が難しくなるようなことも珍しくないが、夫婦の間にあって共通の関心事だったものが目の前からいなくなり、お互いが直接向き合うような状況になったからこそ起こることだとも言える。向き合うようになれば、どうしたって相手のことが今まで以上に細かく見える。見えてしまえばどうしてもあれこれ言いたくなる。

 

 カウンセリングは問題と向き合うところであり、自分自身と向き合うところだ。時間や場所が限られているからこそ向き合うことに向き合えるとも思う。いつでもどこでもいつまででも続けられることではない。相談室という日常から切り離されたところで、決められた時間だけ向き合う。だから向き合い続けることができる。

日常生活でいつも向き合って深く話をすること、お互いが向き合って関係を深めること、問題と向き合い自分と向き合うこと、向き合うことが大事だからと言っても、そればかりをやり続けていくことはできない。向かい合うことは大切で特別なことだからこそ、それなりの気合いやパワーを必要とする。努力や誠意があれば続けられるようなものではない。

 

 こないだ入った喫茶店で、隣の4人がけのテーブルに座った50代ぐらいの夫婦が、新聞も読まず、スマホも取り出さず、コーヒーを飲みながらずっと話をしていた。内容は聞こえないが、気楽なおしゃべりのような雰囲気だった。この2人はテーブルにつく時に、向き合わない斜めの位置にさっと座った。向き合わないからこそ向き合えるものがあると思う。

 

 

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