三つ子の魂百まで

長谷川泰子

 

 幼い頃、初めて海に行った時の記憶がある。厳密に言えば“初めて”ではないかもしれないが、記憶がある中では最初の海の記憶だ。海の中、と言っても4~5歳ぐらいの時だったからおそらく浅瀬、波打ち際みたいなところだったはずだろう、水の中に入れられて、恐怖でまったく身動きが取れず、ただじーっと固まっていたのをよく覚えている。水が怖かったのではない。海には蟹がいっぱいいると思い込んでいたようで、海の底にいる蟹に足をはさまれるという恐怖でいっぱいだったのだ。海を楽しむ余裕なんてまったくなかった。

 今、改めて考えると、どうも幼い頃の自分は外の世界を恐ろしいもの、自分に危害を加えてくる危険なものと考える傾向がとても強かったと言える。海は広い世界、たとえば世間・社会を示すものであり (「世間の荒波にもまれる」などという表現がある)、私にとってなじみのないところだったから、未知の状況・新しい体験を代表するものとも考えることができる。昔から水や海は無意識を象徴するものとも考えられており、そうすると自分自身の無意識の攻撃性を恐れているところもあったと考えることも可能だろう。

 三つ子の魂百まで、と言うが、今もこういう傾向は全く変わっていないと思う。新しい状況に接することが苦手で強い不安を感じる。例えば、前回のブログでも書いたが、この夏、相談室を引き継いでから初めて檀渓心理相談室主催のセミナーを開催した。バウムテストのセミナーをするのも初めてだし、県の臨床心理士会に案内を出して参加者を募ったことで、まったく初対面の方が参加してくれた。定員5人のセミナーで傍から見ればほんの小さな一歩にしか見えないかもしれないが、自分にとっては大きなチャレンジだった。うまく話ができるだろうか、参加者の人に満足してもらえるような会になるだろうか、そんなことをあれこれ考えていると不安でいっぱいになる。広い海の前で見えない蟹におびえている小さい自分と同じだ。見えないところに蟹がいるはずだと思い込んで海に入ることを怖がり、痛い思いをしたくないと動けずにいる自分が出てきてしまう。

 初めての海からもう半世紀近く経ってもこのありさまで、自分自身の変わらなさに自分でもあきれてしまうが、仕方がない。出てきてしまうものは出てきてしまうし、自分の中にいる小さい自分を追い出すことも消すこともできない。ただあることを認めて、なんとか共存していくしかない。自分の中にあるものを否定すれば、蟹のように危険なものが本当に迫ってくるように見えてしまうことだってあるかもしれない。

 西村洲衞男先生のブログに「箱庭は作るだけでいい、夢は見て記録し報告するだけでいい」というものがあったが、夢を見て、たしかにそういうものが自分の中にあると、ただそれだけを認めればいい、そういうことなのかもしれない。そんなことを考えながらお盆休みを過ごしている。

 

 

 

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