自我って何だ

長谷川泰子

 

 バウムテストのセミナーを開催した。こんなご時勢なので、参加者の定員は5人、県の臨床心理士会のホームページに案内を出したら、すぐに参加の申し込みがあったのでうれしかった。夏季短期集中ということで2時間を3回のセミナーを予定した。まだ1回目が終わっただけである。

 受講者は5人とはいえ、人前で話すことはやはり緊張する。バウムテストはこれまでかなりの人数に施行し所見も書いてきて、自分なりのバウムの見方もあるのだが、それを人に一から教えるのはかなり難しい。頭の中にあることを言葉にして分かりやすく伝えるためには、言いたいことをかなりクリアにする必要がある。今回のセミナーで、講義の準備のために資料を見たり勉強したりして、頭の中にあるぼんやりしたものを改めてクリアにしたところがあった。やはり人に教えることが一番の勉強になる。

 大学で臨床心理学の講義を聞き始めたころ、様々な言葉に戸惑った。難しい専門用語ならまだいい。調べれば必ず定義や説明がある。ところが中には日常用語以上・専門用語未満というような言葉があって、これがとてもやっかいだった。当たり前のように使われていて、定義や説明がないのだ。例えば、「自我」という言葉、「自我が弱い」とか「自我の成長」などと、あちこちで使われるのだが、私にとっては分かったようでわからない言葉の代表格だった。何を指しているかよくわからないから、自我という言葉を使って話をされても、今一つピンとこない。何だろう、何だろう、と思っていたら、北山修先生が「自我というのは自分のことだ」と言っているのを聞き、すとんと理解できたような気持ちになった。フロイトははじめIch(ドイツ語で“私”の意味)と es(“それ”という意味)という言葉でこころの動きについて説明した、つまり自我とは「私」、無意識的なものは「それ」としか言いようのないものだ、と、たしかそんなふうな説明だった。Ichとesがラテン語になってegoとid(イド)となり、かえって分かりにくくなってしまったという話も聞いて、そうかとやっと納得した。今では自分も自我と言う言葉を使ってしまうが、 違和感がないから使うことができる。

 セミナーなどで話をする時などは、なるべく専門用語を使わないようにしている。専門用語を使うと分かったような分からないような気持になる。なにより、日常の言葉で説明することによって、自分もちゃんと頭に入るようなところがある。

 

 

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