箱庭療法は人々によく知られているのでわかってもらえる。しかし、面接室では箱庭療法という言葉は私は余り使わない。「箱庭を作ってください」という。箱庭で治すというと何か良い結果をもたらさねばならない。そんなことは約束できない。
ただ、箱庭を作ってもらうだけだ。箱庭を作ると現在のその人のあり方がわかる。
夢も同じである。そのイメージが現在のその人のあり方を示している。
夢のイメージは現在だけでなく、その夢の連想を取ってみると過去も含んでいることがわかる。私はクライエントから夢を聞いた場合は、良よく夢から思いつくことを聞く。昔のことが思い出されて、過去と現在とがつながると同時に、その連想内容は現在のその人を理解するのに役に立つ。例えば、夢に出てきたAさんはわがままな人で周囲の人が困っていた。しかし、夢見た人(Aさん)には今現在そのようなわがままさがない。わがままさは「和をもっと貴しとなす」という日本古来の融和の精神の時代は否定されたが、サッカーがはやり、個性が尊重される時代には多少わがままに自分の個性を発揮するわがままさが必要なのである。Aさんがこれから成長するにはそのわがままさが必要であることが私にはわかる。そのわがままさが未来に実現するかも知れないと期待する。それは実現不可能というわけではない。その人の望み次第だと思う。特に若い人が望みも無く、ただ、今の自分を受け入れてくれるところを待っていると社会に取り残されて行くと思いませんか。
作られた箱庭から夢と同じように連想を取ることは難しい。
箱庭の情景からその人の現在の生活の情景を私は想像する。
先日ある女性が、箱庭の真ん中で巨大なゴジラが蛇を持って立っているという箱庭を作られた。この女性は自分を捉えることができず、自分をゴジラのように感じており、自分の中の爬虫類的なもの、つまり自分の中のいのちの根源的な部分の動きを感じているもののそれをどう扱ったものか戸惑っているに違いない。次に作られた箱庭ではゴジラがいたところに花園ができた。彼女は一応花のような自分を認識できるが、そこにはヘビがいない。この人はヘビを意識するとゴジラのようになり、花を意識するとヘビが認識できなくなるのだ。
ゴジラはこの世に存在しにくいから、花とヘビの両方にかかわる成熟した女性性、つまり色気のある生き生きとした女性を見出して欲しいと思う。箱庭を作り続けているうちにきっと両方をつなぐ中心的なイメージが出てくるだろう。そうすればこの人の悩みは以前とは少し変わったものになるに違いないと思う。
箱庭を作り続けて自分探しをする。箱庭は作るだけで何か良い方向に向かっていくのだと思う。