対人関係のタイプとカウンセリング

 最終更新日2008年6月13日の文章です。カウンセリングの方法論について西村先生ならではの考えが記されていますが、どこに発表された文章かは不明です。

 

 

 

対人関係のタイプとカウンセリング 

西村洲衞男

 

1.問題意識

 少し以前まで境界例が学会を賑わわせていたが、皆が境界例になれたのか、境界例が少なくなったのか、最近境界例について臨床家が冷静になってきたのは確かであろう。境界例とされたものの中には、カウンセリング関係が上手く行かなくなって、そのためにクライエントが境界例にされたものもあるのではないかと思われる。境界例の診断基準がわが国でははっきりしていなかったことや、カウンセリング関係について充分な検討をするゆとりをもっていなかったこともまた原因していると思われる。そこで、カウンセリング関係を人間関係の困難さと言う点から見直してカウンセリングの適切な方法論について考えてみたい。

 

2.臨床的な観察

 あるカウンセラ-が受け持っていたヒステリ-と診断されたクライエントの女性は、カウンセラ-が受容的な態度で接し、クライエントの気持ちを理解し、受け入れていけばいく程、クライエントは不安定になりカウンセラ-に依存的なっていった。カウンセラ-がクライエントに対して一所懸命になればなる程、クライエントはカウンセラ-にとって困るようなことを持ち出してきたり、怒ってしまったりした。

 このクライエントは始めに自分はこれまできょうだいみんなが怒られた恐ろしい父親からさえも全く怒られたことがないので怒られてみたいと言ったことがあった。しかし、このカウンセラ-の方法にはクライエントの気持ちを理解し、受容することしか念頭に無く、クライエントと対決してわざわざ叱るということは方法としてなかったので、永い間叱ることが無かった。しかし、思い返して見ると、その間に腹に据え兼ねて叱らねばならないようなことが何度か起こっていたのであった。カウンセラ-にも話を聞いて貰い、母親にも、そして夫にもかなりわがままを通すことを経験した後に、クライエントはいよいよカウンセラ-から独立していく時がやって来た。別れていくに当たって、最後の話をしている時にカウンセラ-は、今まで自分を振り回してきたクライエントに対して心底怒りを感じたのであった。この怒りはクライエントに対して直接向けられなかったが、この怒りによってクライエントを清々しく送り出すことができたのであった。

 

3.臨床的な経験から見出されること

 上記の症例においてカウンセラ-は来談者中心療法に則って受容的な態度をとっていた。クライエントは受容的な関係の中で幾分退行し、活力を得て再び自我の成長が起こることが期待される。実際この例でもクライエントは少し退行し夫に依存し母親にも助けてもらえるようになった。ところがこの依存は度を越して、ちょっとした不安にも夫を呼びつけるようになり、夫の付添いでカウンセラ-を尋ねるようになった。このようなことは一般にヒステリ-的な性格傾向のクライエントによく起こると思われる。訴えが多くなったり、病院では頻回の面接を求めたり、不機嫌になったり、批判的になったりして周囲の人々やカウンセラ-を相当に手こずらせてしまう。

 このような事例については常識的な人間関係の枠組みを越えてしまうのでよく境界例と言う診断名が付けられてしまう。クライエントに境界例というレッテルを付けると、カウンセラ-はこの面倒な事態に対して責任が無くなり、全てをクライエントのせいにすることができる。その裏にはクライエントに対する潜在的な反感や攻撃性が隠されていると思われる。これはクライエントから掛けられる迷惑に対する逆転移であり、クライエントの陰性の転移によって引き起こされたものである。クライエントの依存的で攻撃的な態度に対して、カウンセラ-は消極的な批判的攻撃的な態度でバランスを保っているのである。カウンセラ-は受容的な態度でクライエントの自発的な主体的な自立性の発展を期待しているのに、そこに転移が生じてきて、受容と依存という愛の関係ではなく、攻撃に対する攻撃と言う対立した関係ができてしまっている。カウンセラ-が考えている受容と依存の愛の関係は建前であって、実際に起こるのは攻撃による対立の関係なのである。

 数年前多くのカウンセラ-が境界例に困り果てたが、最近は境界例に困り果てているという話は余り聞かない。その背景には境界例に対して精神分析の立場から治療構造をしっかりすべきだという指導がなされており、治療構造を整えることによってクライエントと自ずから対決的な姿勢になり、境界例の面倒な関係は少なくなってきたと見ることができるのではないかと思う。

 一方、カウンセラ-が精神分析的な考えに立って関係を持っているところでは、クライエントが攻撃的でなく依存的になってただただ受容されることを求めるとき、分析家があくまでも対決姿勢を固持すると、依存的な態度はことごとく跳ね返され依存させてもらえず、クライエントの方がかえって苦労している事例が見られるのである。

 カウンセリングや心理療法に見られるこのような受容と依存、あるいは対等な関係における対立は人の出会い方の極く基本的な行動様式であり、幼児期の親子関係の反映としての転移と区別しておくことが良いと思われる。そうしないともっと深層にあるかすかにしか感じられない転移を見落としてしまう可能性がある。

 

4.衝動の相異なる二つの側面

 心理療法やカウンセリングにおいては、対人関係の全ての色合いは転移-逆転移によって説明されてきたが、人それぞれには先天的とも言えるほどの特有の対人関係の持ち方の性格があるように思われるので、その性格を明らかにし援助的な関係の作り方を考えていくことがカウンセリングや心理療法における人間関係を考えるのに適切と思われるので、ここに一つの試案を提出してみることにした。

 人の行動を動かしているものは衝動である。力動的心理学ではリビド-とか心的エネルギ-と呼ばれ、それ自体は意味や方向を自ずから持っているものではない。他者に向けられるエネルギ-は一つの力となる。その力は一面では愛であり他の一面は攻撃となっている。対人関係が力動的に動くとき、つまり対人関係に感情や行動が生じる時、エネルギ-は色合いを帯びてくるのである。一つの現れ方は愛であり、もう一つは攻撃である。愛と攻撃は一つの衝動の表と裏である。光の性質がその測定の仕方によって波動の性質を見せたり粒子の性質を見せたりするのと似ている。防衛機制の一つに反動形成(reaction formation)があることによってわかるように、愛は時として攻撃となって現れ、憎しみは愛になって表れることはよく知られた事実である。

 さらに興味あることに、人間関係において愛情が表面に出ている時は攻撃である憎しみは背後に退き、攻撃が表に出ているとその裏にある愛情には気づきにくい。ユング,C.G.は「愛のあるところに攻撃はなく、攻撃のあるところ愛なし」と言っている。人間関係を愛の側面から見ていると攻撃の面が見えず、攻撃の面から見ていると愛の側面が見えないと言うことである。

 人は対人関係において愛に生きるとき、相手に対して近づきたいし距離をできるだけなくしたい。相手の気持ちを理解し受け入れたい。共感し喜びや悲しみを共にしたい。自分を分かってほしいしありのままに受け入れてもらいたい。何かしてあげたいし、何かを与えたい。ときには自分を犠牲にしてでも相手に与えてしまう。人々の幸せに寄与することが喜びとなる。

 愛が支配するところでは個人的な意見の主張は我の張り合いとなり、自己主張のやり合いは喧嘩と見做される可能性がある。対立する意見の主張は関係の緊張を生じ危機を孕み、敵意さえ感じとられる。意見は常にみんなが納得するように洗練され、全員の納得によって気持ちは一つになり、そこに安心感が生まれる。みんな気持ちや意見は一緒であり、同じであり、一人一人の個性は無くなったように見える。ここには競争はあまりなく、優劣の評価は行われても、人間関係を左右するものとはならない。競争したり評価したりすることは歓迎されないのである。

 攻撃的に生きるとき、人は先ず相手と心的距離をとる。相手と自分の立場や意見の違いを意識し、違いを尊重する。自分と相手の相互理解のために意見の主張や議論は肯定的に受け取られ、歓迎される。討論することによって始めて生き生きとした関係が生じてくるのである。意見の違いは個性や考え方の違いであり、討論によって違いをはっきりさせたり一致点を見出したりするその協同作業の過程が信頼感を高めていくのである。

 攻撃の支配するところでは意見や感情の表明がないことは関係を生きようとするその責任の弱さを示すものであり、好ましくない。ここでは攻撃的が積極的と言う意味になり、内向的は消極的な弱さと評価される。優劣の評価が大切であり、競争が生じる。その競争は人間関係が破綻しない限り許され、大切にされる。人々相互の違いがはっきりし、自分の位置づけが明確になることによって安心感が生じる。相互の相違が分からず、境界が不鮮明なところでは自分の位置づけが曖昧となり却って不安が生じる。

 この愛と攻撃という人間関係の在り方は、河合の言う母性と父性の「包む」と「切る」にも一部分対応しているが、それだけではない。愛は包むばかりでなく包まれることもあり、与えたり与えられたり、相互の交流があってしかも何もかも平等にしてしまうところがある。攻撃は関係を切るだけではなく、意見を戦わせ突き合わせることによって関係をつなぐ機能を持っている。その上、愛にしろ攻撃にしろそれを表現することによってエネルギ-の拡大、つまり自我機能の活性化が行われるのである。

 

5.愛と攻撃から見た心理学的な理論

 ユング,C.G.はフロイト,S.とアドラ-,A.の対立を見て、自らもフロイトから独立して行くとき、危機に陥った。その危機から立ち上がる時、フロイトとアドラ-の心理学の相違を心理学的類型論によって説明し、自分の位置づけを明確にすることによって安定したと思われる。

 その心理学的説明に当たって、フロイトはリビド-を心の働きの基礎において心理学の理論を構築した。このリビド-は本来性的エネルギ-であるので、エロス、つまり愛を基礎にした理論であった。一方アドラ-はエディプス・コンプレックスだけでなく劣等感コンプレックスも重視したため権力への意志、支配-服従という力関係も重視することになった。エロスを中心とした精神分析と権力への意志を踏まえた個人心理学とは全く考え方を異にしているよに見えることを一つの事例によって示した。ユングから見ればフロイトとアドラ-の対立は一つの現象に対する見方の違いに過ぎず、心理はエロスと権力への意志の両側面から見ていく必要があると主張したのである。

 ユングが重視したことは先に述べたように、心理学的な状況をエロスの側面から理解するときは権力への意志が見えず、権力への意志から理解しようとするときエロスの側面が見えなくなると言うことであった。つまり、エロスに視点を置いているフロイトはアドラ-の考えに中々ついていけず、ここに相互の離反が生じる原因が一つあったと言うのである。

 このことは心理現象を研究しようとする者にとって大変厄介な問題であり、ユングの主張にも係わらずフロイト以来ずっと悩まされている問題で、我々日本の臨床心理士が今も抱えている問題であると思う。

 精神分析派の人々は愛の問題に注目したが、その研究の態度が客観的であるために、クライエントと分析家、あるいは分析家とス-パ-バイザ-の間に距離を置き、二人の間に起こる心の現象を相互に観察し、議論を戦わせているために、分析家とクライエント、ス-パ-バイザ-と分析家の関係は相互に対等の関係を意識していかねばならなくなっている。

 一方、ユング派の分析はイメ-ジの世界に共に入っていくために、共感し同じ境地に立ち内的な世界ではお互いの距離がなくなり、相互に相手を受容し包み込もうとし、対等に相対して議論を戦わすことをしない。このよううな訳で、精神分析派の人々はユング派の考え方について行きにくいし、ユング派の人々は精神分析派の考え方についていけないのである。

 我々はこの混乱を避けるために、対人関係における人の係わり方のタイプを分けた方が良いと思われる。一つは愛に基礎を置く親和型と、もう一つのタイプは攻撃性に基礎をおき、各人の個性を重んじ相互の自己主張によって協力していく協調型があるのではないかと思われる。次にそれについて説明する。

 

6.親和型

 対人関係を愛を基調にして結んでいく人を親和型と呼ぶことにする。お互いに愛によって相互に包み込み、守っていこうとする。お互いに気持ちを理解し、感情的に気持ちを一つにしていくことに気を使っており、異なる意見や考えを犠牲にしても親しく和を結んでいくことが重視される。

 これは日本の伝統的な対人関係の在り方である。母親が子どもを全面的に受入れ慈しみ、子どもが母親の気持ちを理解して、母親の望むように成長を遂げようとする。集団や組織の中では、その集団が内的には母性的な要素を持っているために個人は集団の期待に沿うように動くことが求められると考えるのである。従って、集団の中で人々はお互いに理解し合い、意見の一致を見ることが何時も大切である。一人ひとりの個性は抑えられ、個性は集団のものとして作られていくに過ぎない。

 互いに意見が異なって対立することは危ないとされるので、何時も意見を一致させる方向に気を遣っている。中根千枝の言うタテ社会はこの親和型の人間関係で成り立っている。ここではリ-ダ-の考えることを尊重しそれにそって考えを深めていくことになる。あるいは反対に下の者の意見が取り立てられ、上の人の行き方を支えていく。かといって上の人が複数の意見を対立させ、その相互作用から何か新しいものを作っていくことは滅多にない。一人の人を取り立てると他の考えは退けられることになる。ここでは異なった意見を出したり、対立した意見を出して議論すること難しい。所謂ディスカッションは成立しない。異なる意見はリ-ダ-の疑念によって一蹴される。それに対してなお抵抗するとなれば、不服従となり異端視されるだろう。各人それぞれに異なる意見はあるものの、それは互いの命運に係わらない限り余り重視されない。

 母子関係を基にしているので接触要求は好ましい最も基本的なものとされ、退行も将来への発展のために歓迎される。二人の関係ではお互いに同じ気持ちであることを理解し、同感であることが大切である。暗黙の了解の基に同じ考え同じ行き方で行くことを期待している。

 新しい考えは母子一体の相互理解の中で温められ生み出されてくる。子どもが母親の胎内で育まれ、生まれ出てくるように、時には長い間かかって生じてくることもあるのである。昔の寄り合いは幾つもの議題を数日間かけて考えぬき、頃合を見て長にある人がこれで異論は無かろうかと諮ったのである。(宮本 忘れられた日本人)

 最近の会社人間の中にもこの性格の人が見出されるであろう。会社の要求するものを自分の生活の目標とすることができ、しかも、自分のためでなく会社のために働いている人たちである。人々は互いに助け合って生きているので、人を世話することを当然のこととして受入れ、それが自分自身の目標となってしまうことがあるのである。世話をする相手がいなくなったとき自分の目標が無くなってしまうのである。

 親和型の人は自我境界が曖昧で他者との境界をなくす方へ努力していき、自分を無くすことによって、他者を受け入れる心の広さを持っている。自我境界が曖昧で、自分を無にするようなところもあるから、一見自我の弱い未熟な人に見えるかもしれない。いわゆる自我の強さがないように見える。しかし、心の大きさ、器の大きさがある。この人たちを量るには、強さでなく器の大きさで量らねばならない。従来の日本ではこの器の大きさを大切にしてきたが、現代の日本において人格の器の大きさという観念が消えてしまったようにさえ見え、今や自己主張の強さや個性の強さ、目立とうとする意志の強さによって人格の強さを評価しているように思われる。親和型はそういう個性的なものを排除してしまうところに特徴があり、現在のマスコミを中心とした社会には受け入れられにくい性格である。

 

7.協調型

 先に述べたように衝動のもう一つの側面は攻撃である。関係を作ろうとする衝動が攻撃となって現れるとき、人と人との間に距離ができる。人々はお互いに独立しておりどんなに頼り無くても自分らしさを持っている。心理学においては人が独立するためにはある程度の人格的な成長を前提とすると考えのが一般的であろう。しかし、自分が他者と違うという意識があれば、その意識は他者から独立しているはずである。その程度の独立性はもの心がつき始めた頃からあって、次第に多くの経験を重ねながら強められていくものである。従って、自我の目覚めが早く、そして知的な認識能力の高い人は人間関係の色々な出来事に関心や疑問を持ち批判的な態度をとることができる。

 幼い頃から親の愛情に疑問を持ったり、親の愛情をこちらに向けるために良いことをしたりする。親和型の人と同じように親の期待を敏感に感じとってそれに応えるのであるが、良いことをして受け入れられることを待つのではなくて、関心や愛情を積極的に引きつけようとしてなされるのである。信頼とか愛情はその時々の良いことや悪いことによって出来たり壊されたりするものであるから、常に作っていく必要がある。関係は必要がなくなったら止めてしまえばいいし、必要になったらその時に相応しい関係を新たに作って行けば良いのである。親和型の人から見ると協調型の人の関係は一見バラバラである。しかし、そこには少々意見の相違があっても崩れない信頼関係が成立している。韓国の国民性にはこのような傾向が強くあるようで、友情が出来てくるとわざと相手の足りないところや弱点を指摘して、喧嘩しても壊れない信頼性を確かめるのである。

 協調型の人間関係は対等な戦い-相互の独立性-を基調としているので、横の関係が強固になっていく。従来の日本の対人関係は親和型でタテ社会であるのに対して、協調型はヨコ社会である。同性同年輩者、同世代、同じ様な仲間の関係が歓迎される。現在の大学における人間関係は大学紛争から変わったと思われるが、それはタテ社会からヨコ社会に変わったのである。タテ社会の重要な要素である権威的なものは個人的なレベルでは恐れられているものの、公的なところでは多くのものがが対等な関係になってしまう。人々は相手の独立性と自我境界を侵さぬように気をつけていれば良いのである。学生たちも大きく変わり、リ-ダ-レスになって学生の集団をまとめることが大変難しくなっている。一人一人が自分らしさをもって行動していて対等であるから、一人だけ飛び抜けてパフォ-マンスをすることができなければリ-ダ-になれない。日本人はこれからの社会で集団をまとめていくことについて相当にエネルギ-を使わなければならないであろう。これは親和型の自民党が行き詰まって、協調型の社会党が出てきたことと呼応していて、現在の政治の問題にもなっている。

 欧米の社会では個人の自我の主張が尊重され、常にお互いの意見をぶっつけ合って討論していくことが習性となっている。特に、ラテン系の人々は、日本人から見ると喧嘩しているくらいに激しくやり合っていて、しばらくすると仲良くお茶を飲んでいることがあると言う。このようなことは親和型の日本人には考えられない。しかし、戦後欧米の文化が浸透してくるにつれて、攻撃型の、自己主張の強い対人関係の持ち方も入ってきて、今や若い世代ばかりでなくマスコミの影響を強く受けた人は年配者もヨコの社会的な関係を求めるようになっているのではなかろうか。

 親和型が非合理的な態度で何事もあまりきちんと評価や批判をせずに受け入れてまとめていくのに対して、攻撃的な要素が入ってくると全ては評価され批判されて、良いものと悪いものに分けられ、できるだけ良いものを選択して生きることになりがちである。

 一人一人が自分の行き方なり、考え方を持っており、それを大切にして生きていこうとする。いわゆる自我意識が強く、枠組みが強く、自我境界がハッキリしていると言ってよいであろう。考え方を少し変えることは自分の存在が揺らぎかねないのである。それほど意識的な考え方や行き方を重視していると言える。

 協調型の人は自分の意見をはっきりさせるためにも、また他者と仲良くなるためにも議論をするのが好きである。相手と討論をしながら新しい考えを見出していく。相手からのインパクトがあるとそれに反応して新しい考えが湧き出してくるのである。相手と自分の考えの違いを意識しながら共通に理解し合える境地を見出していくことができるのである。基本的には考え方や意見が違っていてもいい。違っているものをそのまま尊重して置いておくことができる。一人一人は夜空の星のように個性を持ち、互いに距離をもって位置しているが、星座があるようにある意味や意義をもって集団化していくことができるのである。人はそれぞれの意識の光を持っているが、それらは独自のものであって決して他と融合することはない。集団化して融合するときは全体の布置(星座)統合するような意味のあることが必要になるであろう。それがない限り一人一人は自分の枠組みを守って自分の存在の意義と安全を守っているのである。

 反対に親和型の人は意識のこのような枠組みに捉えられておらず、枠組みは人との関係である程度変わらざるを得ないものであるとし、むしろ、内面で感じているものを尊重している。この点だけを見ると、親和型は内向的で、協調型は外向的であるように見える。内向的-外向的と言うのは意識の態度としてユングが定義しているので、ここでは親和型-協調型の一面を現すものとして見ていきたい。

 

8.対人関係のタイプと神経症

 親和型の人の神経症としては心気症や精神衰弱症があげられるだろう。それらの共通性として自我のエネルギ-は自分以外の身体や周囲のことに向けられており何事にも気に病む質で、くよくよとしている。この性格では外から批判されるとひとたまりもなく、攻撃に対して弱い。常に周囲の理解と受容を頼りにしており、他者あるいはグル-プとの意見や気持ちの一致が安定をもたらす。自分自身を守ったり、自分に集中することが難しく、他者に対して配慮的になり、サ-ビスをすることによって自分の安全性を高めようとするのである。基本的には配慮的な性格で、攻撃性が乏しい。

 最近増加してきた神経症的な登校拒否の生徒たちにもこの親和型の性格が多く見出される。登校拒否の生徒たちは「良い子の怠け」とも言われるが、本来親や教師の期待に添って生きてきて、それが自分の本来の行き方として無意味になり、そうかといって自分なりの生き方がわからないときに生じるものでもある。彼らは周囲の重要な人の生き方に合わせた生き方をしているという点で親和的である。親や先生ばかりでなく友達に対しても配慮的である。しかし、その配慮的性格は現代のドライな人間関係には通用しないので、生き方に困難を感じてしまうのである。

 登校拒否の生徒の家庭を見ると、人々の喜びは私の喜びであるという考えが神話としてある。私を犠牲にしても、人がそれによって幸せになるのなら喜んで苦しみに耐えますと言うのがこのタイプの人の生き方である。この生き方は日本の古い家族制度の中で維持されてきて、戦後も産業社会に家族制度が生きている間はこの生き方も意味があって報いられてきたが、産業社会に競争原理が導入され家族的な助け合いよりもより高い能力が尊重され、終身雇用制度が脅かされる状況では配慮的な性格は時代遅れになっている。同じく競争社会である学校の教室も配慮的性格だけでは生きられない状況になっているのかもしれない。

 不登校の児童生徒を見ると、自我の発達が遅れているように見えるが、周囲に配慮し、他者の生き方を自分のものとして受入れ、何ものかのために尽くすという点ではかなりの強さを持っていると言えるのではなかろうか。攻撃的に自己主張する人に較べると中心的な自我がなく、自分を犠牲にしてばかなことしていると見做されがちなのにすぎない。親和型の性格の人も配慮したり、人々の気持ちを汲み取ったりすることにおいて相当の強さを持っていると考えられるのである。

 協調型の神経症としてはヒステリ-やその類縁の神経症や境界例があげられる。このタイプの人たちは親和的に接近すると不安になり、しばしば状態が悪化する。愛情をもって接近しようとすると怒りが表情に現れる。その怒りは愛情に対する不安の現れである。ヒステリ-性性格の人は依存対象に対して素直に依存するような構えができておらず、むしろ自分の良い面を見せて誉められ尊重されるようにもっていく傾向がある。弱さを認め、哀れまれるような存在とは認めたくないのである。痩せても枯れても自分の存在に誇りを持ち、それを堅持し続けるのである。只単に自分を無にして相手に合わせることはできない。ヒステリ-性性格は意識と無意識が乖離し精神と肉体もそれに呼応するように乖離しがちで、精神的な構えや意識の態度が切羽詰まったところまで緊張しているので、他の考えや意見を受け付けることができないのである。

 ヒステリ-やヒステリ-タイプの境界例のクライエントや児童生徒がカウンセラ-や教師に対して無茶苦茶な態度や行動をとることがある。それに対して親和的な態度で優しく接していると相手は益々混乱するのが普通である。このような場合カウンセラ-や教師が断固たる態度で厳しく対決すると相手は以外に徐々に治まっていき、時には遜ってしまうことがある。協調型には断固たる対決姿勢が有効である。この要素はロジャ-ズの来談者中心療法にはない。そのために来談者中心療法や自由連想法的な面接法に依っていたカウンセラ-は攻撃的なヒステリ-や境界例のクライエントに接して混乱し手こずったのではないかとは思われる。これからも受容的な態度一点張りで面接していると協調型のクライエントの面接で困難を経験することであろう。但し、ヒステリ-や境界例のクライエントもいきなり対決姿勢で接すると多くは関係が切れてしまう。対決が有効になるまではかなり長い期間受容することによって愛着の関係を醸成しておかなければならない。受容的に接するとしばしば愛着を求めてクライエントや児童生徒は問題を起こすので、その対応に辛抱強く耐え続けなければならない。これはカウンセラ-が親和型の性格の場合に怒りがちなことである。一方、カウンセラ-が協調型である場合、カウンセラ-がクライエントとの関係をクライエントの生き方に合わせて適切に対応し対決すると、ほとんど問題なくクライエントの生き方が方向づけられて解決に向かうことがある。これは関係に手こずった人から見ると何とも奇妙なことである。

 ヒステリ-タイプの人は意識的に行動するときは相手と距離をとり、なるべく同化しないようにしているが、反対に無意識的には人に合わせる行動が起こりやすい。相手が自分の尊敬できる、自分を捧げて悔いなしという相手には期待に添って行動する。相手の気持ちや期待を敏感に感じとり、それに応えようとする。その結果、相手の側、例えば教師や指導者の期待に見事に応えて成果を上げることができる。その成果によって自分のアイデンティティができて主体性が守られるのである。

 最近不登校の児童生徒にヒステリ-性格の目立ちたがりで、協調性のない、そして配慮性のない者が現れてきた。この子たちはクラス内暴力と言えるような行動を示す。家ではそれほど破綻を来さず、むしろある程度構ってくれ熱心に取り組んでくれる先生を相手に無茶苦茶をする者がある。完全な不登校の状態ではわからないが、登校し始めるとその問題行動が現れてくる。何でも良いから目立って先生や友達に認められることが嬉しいのである。この性格の不登校の生徒は現代の最も先端的な、自己主張的、自我拡張的な欧米的な性格である。彼らは友達や先生との間に起こった少々の諍に後味の悪さを感じていないようである。配慮的な人が配慮の不味さについて、それが終わってしまうと簡単に忘れてしまうことがあるように、彼らは喧嘩の後それをすぐに忘れてしまうのである。だから最近は「喧嘩」とは言わず「諍(いさかい)」と言うようになったのではないかと思われる。この性格は欧米型、あるいはラテン民族型と言っても良いのではなかろうか。このような傾向は境界例の中にも見出される。

 強迫性性格の人たちも精神的な構えや意識の態度が緊張しているので、相手と心的な距離を保ち独立性を持っている。ただこの人たちはただただ自分を守ることに熱心で、反発したり相手を激しく攻撃したりすることは苦手で、攻撃性するとしても自分との違いを少しだけ明確にするくらいである。目立たないようにして、静かに心的距離を保って控え目に接している人たちである。

 

9.人間関係のタイプと依存の仕方

 親和的性格と協調的性格では依存的行動が違ってくる。親和型の人にとって依存対象に接近し身体接触を持つことは容易であるが、協調型の攻撃的な人には接近して身体接触を持つことは難しい。従って攻撃したり、不機嫌になったり、無理難題を持ち掛けたりして関係を強めようとするのである。こういう傾向は家庭内暴力の子どもに多く見られるので臨床家にとってはなじみぶかい現象である。また、自立的で子どもにも早い自立を求める攻撃的な親も子どもの求める身体接触の要求を受け入れるのに抵抗がある。彼らは何事も子どもとの話し合いで解決しようとする。ただ身体接触を求めて安らぎを得たいという気持ちがわからないのである。そういう人は多くの場合親自身も身体接触を受けておらず突き放されて育っていることが多い。そういう人にとっては病気も一つの甘えである。「自分は病気になってそれを治さねばならないと思ってなおした。娘のあなたはどうして自分の病気から治ろうとしないのか」とやせ症の娘を叱った母親があった。この人たちにとって病気という甘えも許されないのである。

 

10.カウンセリング・心理療法と人間関係のタイプ

 親和型の意識の機能は曖昧で非合理的なものも受け入れるような寛容さがある。夢や空想や箱庭や子どもの遊びなどに現れるイメ-ジに強く関心を持ちやすい。具体的にはいろいろと異なるものの中にある共通性を見出し、そこに共通の理解が成立するが、その意味をことばで明確にするよりも、暗黙の了解として意味を共有することになれている。下手に言語化してしまうと、意味の一部分しか明確化できず全体的な把握が困難になり、イメ-ジを共有する集団の統合性は失われてしまう。そのためにイメ-ジの体験に限らず、体験の言語化が全体的に抑制されるようになる。その結果、イメ-ジを操作的に扱わず、イメ-ジの内的なたいけんに重きをおく臨床家によるイメ-ジの研究は極端に少なくなっているのは事実である。

 親和型のカウンセリングとしてはロジャ-ズ,C.R.の来談者中心療法が最も典型的である。ここでは共感的に理解され、受容されたところからクライエントは自らの自己成長能力によって成長し、問題の解決が図られるのである。主観的な共感的受容が重視され、客観的な見方は排除され、批判的な見方や解釈などは技法の内に存在しない。

 ユング派の分析も河合の基本的な考え方である、「できるだけなにもしない」という態度に法っていれば、この親和型に入る。できるだけなにもしないのは、心が自ずから本来の発展をするのをできるだけ邪魔しないようにして、その発展を促すことを目指しているからである。できるだけ何もせず、カウンセラ-とクライエントの間に深く広い内的な共感と相互作用を生じさせ、その上で自然の治癒力を待つのである。深い目に見えないところでの相互の心の働きがたましいの目覚めを促すのである。これは全く愛の原理に支えられた心理療法と言うことができる。箱庭療法も、そして夢のありのままのプロセスを辿って生活を方向づけていくタイプの夢分析の方法もこの親和型に入る。

 日本的な心理療法である森田療法や内観療法も全く攻撃性や自己主張を抑制しており、親和型の対人関係を基礎にしているということができる。

 協調型、攻撃型の心理療法としては精神分析やイメ-ジを操作的に扱う催眠法を応用した技法が上げられる。

 精神分析では治療構造をはっきりさせ、クライエントの治療目標や治療意欲を明確にして、しかも、どのような心理でも言語化せずには済ませないという態度がある。心理についてわかったところとわからないところを明確にして、わからないところを明らかにしていくことに精神分析の目的があると考えられているからである。分析とは明らかにすることである。だから不明確なことについて解釈を加え、わからない表現に対して疑問を投げ掛けることができる。クライエントも同様に分析家に対して自分の疑問を投げ、不満な点について意見を言うとあなたもそこまで強くなりましたと誉められることであろう。クライエントと分析家は常に対等であり、関係の持ち方について同等の権利を持っている。だから協調型の関係では所謂ディスカッションが可能である。欧米においてはユング派の分析家も協調型の関係において分析をおこなっているのではなかろうか。

 精神分析理論にもいろいろあるが、エリクソン(Erikson,E.H.) のアイデンティティの概念のように曖昧なものは好まれない。明確なことの好きな人々はアイデンティティを性的アイデンティティや職業的アイデンティティ、自我アイデンティティに分解してしまった。さらに、自我同一性尺度を作って、操作的に測定可能なものしか扱わなくなってしまい、本来のアイデンティティの概念は省みられなくなってしまった。最近、協調型の人は精神分析理論の中でも、クライン(Klein,M.)の理論は最も割り切っていて、ベ-スに攻撃を肯定する考えがあるので最も好まれるているように思われる。治療関係を含む全ての対象関係は心理学的に理解可能な心理的な事実であって、そこに入ってくる私情は全て転移-逆転移として解釈の対象となる。

 

11.おわりに

 対人関係を動かす衝動を愛と攻撃の二つの側面から考察し愛を基調にした親和型と攻撃を基調にした協調型について述べ、カウンセリングや心理療法の問題についてそれが有用な観点であることを示しえたと思う。このタイプの考えは臨床心理学の領域だけでなく文化や社会の変化や葛藤の理解に役に立つ可能性を示唆した。その評価は今後の研究に待ちたいと思う。

 

 

 

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