書くことが思い浮かばない

 2018年12月14日が最終更新日の文章です。ブログ用の文章だと思われますが、書きかけだったのかホームページに掲載されないままだったようです。途中、旧約聖書のヨセフの話が出てきますが、ヨセフの夢解きの話はずいぶん関心を持たれており、他の文章でもあちこちで触れられています。

 

 

書くことが思い浮かばない

西村洲衞男

 

 

 最近あまりカウンセリングノートを書いていない。面接しているとき、これは面白いから書いておくべきだと思うが、今こうしてパソコンの前に座って何を書こうかと考えてみると一向に何も出てこない。困った。これが老いというものだろうか。これは面白いと感動することは多いのだが、いざ心の中を見てみると何もない。感動はあるが、瞬間的なものにすぎない。だんだん、瞬間的な意識の活動になり、連続性が無くなって行く。短期記憶が悪いというのがこういうことであろう。

 初めは、私が夢と箱庭による対話的心理療法に徹底することにし、しかも、その方法は自分にしかできないと考え、心理療法は各々が自分の経験に基づいて確立しないといけないから、自分の方法を教える意味がなくなって、書く意欲がなくなったと感じていた。でもそうではないらしい。やはり老化したのだろうと思うようになった。

さらに自分はこんなことも考えるようになった。

 旧約聖書出エジプト記のモーセのように神に直接まみえることはないが、創世記のヨセフのように夢を解くようになったのではないかと思うようになった。ヨセフはエジプト王の夢を解くために呼び出され、夢を解くことができるのか聞かれ、王にこう答えた。「夢を解くのは私ではありません、神が解くのです。だから私に話してください」。

 つまり、ヨセフの心の中には神がいたのだ。神の働きというのは夢を聞いた時のひらめき、直観である。ひらめき、直観は神の働きなのであった。私も面接場面で同じことをしている。夢を聞いてその場で思いついたことを言っている。それが相手の心に通じる。それが生きている会話になる。私は面接場面でヨセフと同じことをしている。だが、神との接触は非日常的だから日常に戻ると大抵すぐわすれてしまう。折角良いことを思いついたのにと後で思うことが多い。

 ヨセフも私も人間である。フロイトもユングも河合先生も同じ人間ではないかと思うようになった。能力も器も違うけれども、小粒ながらやっていけるのではないかと考える。

 こういう考え方に到達したのは呆けのせいか老成のせいかわからない。一種悟りのような気持になっていい気になっている自分がいる。

 

 悟って瞬間瞬間に生き生きしているのが禅の坊さんかもしれない。私も面接場面ではかなりそういう状態になっているのではないかと自負する。眠い時は眠い、面接が面白くないと眠くなる。何か見つけると意識が目覚めてきて、面白い話になる。今日もそういうことがあった。今日の仕も事面白かったと思って帰ってきた。

 

 

 

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