俳優修業

長谷川泰子

 

 ずいぶん前だが、心理臨床学会で河合隼雄先生のワークショップに参加した時に、河合先生が「俳優修行」(スタニスラフスキー 山田肇訳 未来社)を臨床心理士にお勧めの本として挙げられた。タイトル通り、演技のレッスンなどについて書かれた本だ。この中に、役者を舞台に立たせてある場面を演じさせるところがある。ちょっとやらせたところであれがだめだ、これがだめだと“指導”をし、再度やらせる。またダメなところを指摘し、演じさせる。これを繰り返すと、最後には役者は全く動けなくなってしまう。この部分を紹介されて話をされた。

 私たちが行う研究会やセミナーでもこれと同じようなことが起きる可能性がある。例えば事例研究会など、特に初心者のうちは、発表者のできていないこと、見えていないことの批判ばかりに走りやすい。きちんとした指導者がいないようなところだとそういった意見ばかりが大半を占め、発表者がただ傷つくだけでなんのメリットも得られない、参加者もなんの勉強にもならない、そんな会になってしまう。

 西村洲衞男先生が、河合先生は事例研究会などでは発表者に対して絶対に悪いことを言わないようにしている、と言っていたことがある。実際、皆の前であの河合先生に批判されたとなると、言われた方もずいぶんショックが大きい。そういうことも考えてのことだったのだろう。しかし、ただそれだけではなく、河合先生は物事を多面的に見ようとずいぶん意識されておられたのだとも思う。たしか「臨床場面におけるロールシャッハ法」(岩崎学術出版社)の中で、注として小さく書かれていたと思うが、河合先生がロールシャッハの事例を大学の勉強会で出したところ、学生がマイナス面ばかりを取り上げたような意見ばかりを言ったので不満に思った、とあった。やはり単純に批判だけで終わるのではなく、物事の良いところやプラスの面にも目を向けて、一方向からだけ見て判断するようなことは避けるべきだということだろう。

 私が臨床心理士として仕事をし、こうして相談室の室長が務まるようにもなったのは、15年近くスーパービジョンに通った経験が大きいと思っている。スーパーバイザーの先生は良いところも悪いところもきちんと指摘をしてくれた。当たり前のことかもしれないけれど、スーパーバイザーの先生の支えがあって、自分なりの臨床の方向性ができてきたのではないかと思っている。批判的な指摘ばかりだったら何をするにもびくびくして、自由に自分の方向性を見出すことができなかっただろう。

 

 良いところを指摘したり全体を見通して適切に分析することより、できていないところを指摘したり批判したりする方が楽なのかもしれない。手っ取り早く正しいことが言える。しかし正しいことばかりでは、結局は相手を殺してしまうようなところがあるのではないか。

 

 

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