オオゲツヒメの話

長谷川泰子

 

 古事記にオオゲツヒメの話がある。高天原を追放されたスサノオが、空腹を感じてオオゲツヒメに食べ物を乞うと、オオゲツヒメはどこからとなく様々なごちそうを出してくる。いったいどこから持ってくるのかと思ったスサノオがこっそりオオゲツヒメの様子を見ていると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食べ物を出し、それを調理してスサノオに出していた。汚いものを出したと怒ったスサノオは、オオゲツヒメを殺してしまう。バラバラにされたオオゲツヒメの体のそれぞれの部分から蚕や稲や大豆などが生まれたという。古事記の中ではオオゲツヒメは養蚕と五穀の神となっている。

 このように殺されたカミ(多くは死体がバラバラにされる)の体のいろいろな部分から、その文化にとって大事な作物、多くは主食になる食べ物、が生じたという神話は世界各地にあるようだ。こういった食物の起源を語る神話は「ハイヌウェレ型神話」と言われている。ハイヌウェレはインドネシアに伝わる神話に登場する女神の名前で、殺され切り刻まれてあちこちに埋められたこの女神の死体から様々な種類の芋が生まれたのだという。

 世界各地に同じような神話があるのだから、そこには人間に共通したイメージがあるのだろう。手元にある西郷信綱「古事記注釈」第二巻(ちくま学芸文庫)には「穀神が殺される話は、世界中にひろがっている。穀物は毎年地に落ちて死ぬからだか、しかしそれはまた甦りもする」とあるが、それを象徴的に表現すると、オオゲツヒメ、あるいはハイヌウェレの話になるのだろう。死んで大地にばらまかれたものから再び芽が出て穀物を実らせるのである。その説明は頭では理解するものの、一方でカミを殺しバラバラに切り刻み、それをあちこちに埋めたものから食料が生じるという発想はやはりすさまじいとも思ってしまう。現代的な倫理観から考えすぎだ、神話的思考、無意識的な象徴表現というのはこういうものだと言われても、食べ物・穀物の起源を殺されバラバラにされたカミの死体に求める発想が世界中にあるというのがピンとこない。

 しかし最近になって、このオオゲツヒメの話が妙に納得できるようになってきた。前回のブログ(After the death)でも書いたが、ここ最近、西村洲衞男先生と関わりのあった人たちの様子を見聞きすることがしばしばあり、そのなかでオオゲツヒメの話を思い出したのである。

 西村先生の実体はすでにないけれど、それぞれが先生のたましい、あるいは西村先生のエッセンスとでもいえるような何かを分け持ち、それをもとに自分なりに新しい何かを生み出そうとしている。ばらまかれた先生の血肉ともいえる何かをもとに、それぞれが生きる糧となる何か、こころの栄養となる何かを生み出そうとしているのではないか。

 オオゲツヒメ同様、ハイヌウェレの話でも自分の体、しかも尻から様々な宝を取り出し、それを知った者が「汚い」と怒って殺す、という話が付属している。なぜお尻、とこれもびっくりしてしまうが、神話表現・象徴表現として考えると納得のいく解釈があるようだ。ただそういった解釈はおいて、今の状況に当てはめて自分なりに考えてみると、例えば私たちが例えば西村先生の考えや発想をおもしろく興味深く聞いて自分自身の臨床に活かそうと取り入れたりするのも、先生自身がいったん自分の中におさめ、消化し、一つの考えとしてまとめて表に出したものを一種の宝、あるいは取り入れるべき栄養として扱っているわけで、それを象徴的に表現すればハイヌウェレ、あるいはオオゲツヒメの話になると言えるだろう。

 誰かが出してくれるものをありがたいと言ってただ受け取っているだけではなく、与えられたもの・残されたものをもとに自分で栄養となるもの、生きるための糧を生み出し育てていく、そうなってやっと一人立ちだと言えるのかもしれない。そう考えるとオオゲツヒメの話は単に食物起源神話としてだけでなく、カミに乞いカミに依存するだけの存在から自分で必要なものを育てていく存在になる、人間の精神的自立の話としても読むことが可能だろうか。

 

 

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