愛着能力の低下

 文部科学省によって発達障害と呼ばれている子どもたちの多くに愛着障害と認められるものが多くあると感じている。しかし、この考えはごく一部の心理臨床家の間で通じる考え方ではないかと思っている。発達障害は脳の機能に問題があると多くの人が考えているのではないか。その脳起因説によっていると私の心理臨床が行き詰るので、できるだけ心理学的に可能な理解をして接近を試みたい。

 そこで、一つ新たな事例を聞いたので記しておきたい。

 

 今度の事例は保育園でなく家庭だった。発達障害と呼ばれる女の子、小学校低学年の子どもが遊戯療法を受けているうちに次第に愛着欲求が増え、母親にベタベタとするようになった。すると、母親はその子どもに椅子を買ってやってそれに座るように勧めたということだった。子ども用の椅子が無くて、その子のための特別の椅子がなかったのかも知れない。家庭の事情としては当然の成り行きかも知れない。

 子どもがベタベタしてきた時期に、小学校低学年の子どもが膝に乗ってくることがわずらわしいことはわかる。多分10キロ以上の子どもがしょっちゅう膝に乗ってくると体格のいいお母さんでもわずらわしいだろう。

 一方、折角母親に甘え始めた子どもに、甘えられてうれしいという感情が湧かない母親に息の詰まる思いをする。母親自身もきっとそういうことをされていないのではないか。甘えたい気持ちを共感できるものが欠けているのである。『スポック博士の育児書』では昔甘え癖をつけてはいけないと書かれていた。母子手帳にもそう書かれた時代があった。だから、今、その甘えはいけないという考えで育てられたお母さんたちが沢山いるのである。それも早くは二代目になっているのではなかろうか。甘えが否定された日本文化がここにある。現在人々は甘えられなくて困っている。誰に頼っていいかわからないのではないか。ゆっくりと憩うことのできない世界に私たちは生きている。

 私たち実際的心理臨床家はこのような共感性の無い、憩うことのできない世界で仕事をしているのである。(大学の教員時代はそういう現実をはなれ、精神分析やユング心理学の世界に生きていた)そして、世の中はこんなに冷たくなったのだと嘆きながら、そのような母親に会っているうちにこの共感性の無さが私の心にも当然のこととして植えつけられていく。無意識のうちに感化されていくのである。朱に交われば赤くなる。私もだんだん冷たい人間になっていくのではなかろうか。

 

 私のねこたちはその淋しさを癒してくれるのではないか。ねこたちはいつも変わることなく愛着の重要性を思い起こさせてくれる。暇があるとねこたちの散歩に付き合うことにしている。散歩先でも私がいるとねこたちは安心して駆け回ることができる。安全基地がいかに大切であるかがわかる。

 

 

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