たましいと徳のある生き方

私の心理療法は夢と箱庭に負うところが多い。相談に来られた方に夢を聞き、時間があれば箱庭を作ってもらう。箱庭にはその人の心の世界が表れ、どのような心の地図で生きているかを見ることができる。夢にはその人の生き方が表れている。過去に経験したことや繰り返し出てくるとその人の生き方などがわかる。夢にはその人の現状が述べられている。たましいは現状の背景にあるわけであるが、それを見ることも触れることもできない。けれどもこの人はこのように生きてきたのだという心の軌跡ぐらいは感じ取ることができる。どのような環境で育ちどのようなことを経験したかがわかるとそこにその人の物語が思い浮かぶ。物語はこれからどのように発展すると良いかを考え、何が欠けているか、何が過剰なのかなどを考えて意見を述べ、話し合う。新たな問題を考えてその答えを夢に聞く。次の週の夢に答えが現れることを期待する。
心理療法の面接場面で夢を読み上げてもらうが最初からわかったと思うことは少ない。たましいはわかりにくいのである。書かれている夢を逐一検討し、連想を聞いていくと次第に夢が指し示していることが漠然とわかってくる。それを相手に伝え話し合っていると夢の意味が納得できて心が落ち着く。そこに安心感が生まれる。こういうふうに夢や箱庭を見ているとたましいの流れに触れることができるのではないかというはかないが確かな可能性に期待するのである。
元々たましいはかすかな、在るか無いかわからないものである。けれども夢や箱庭の背後にあって確かに人を導いているように思われる。
かすかな、在るか無いかわからないけれど、常にわたしたちの生き方を支えているものの記述を『老子』の中に見ることができる。
老子第21章(老子 小川環樹訳注 中公文庫)
すべてにはいりこむ「徳」(のある人)の立ち居ふるまいは、ただ「道」だけに従っている。「道」というものは実におぼろげで、とらえにくい。とらえにくくておぼろげであるが、そのなかに象(かたち)がひそむ。おぼろげであり、とらえにくいが、その中に物(実体)がある。影のようで薄暗いが、その中に精(ちから)がある。その精は何よりも純粋で、その中に信(しるし)(正確)がある。昔から今に至るまで、(「道」の)その名がどこかへ行ってしまうことはなかった。そして(「道」は)、すべて父たちの前を通りすぎる。どうして私は父たちがそんなふう(に消滅するの)だと知るか。これ(直観)によってである。
老子は翻訳が多く、それぞれに訳し方が違う。自分にぴったりの訳は幾通りも読んで探すしかない。
老子第21章(老子 峰屋邦夫訳注 岩波文庫)
大いなる徳を持つ人のありさまは、道にこそ従っているのだ、道というものは、おぼろげでなんとも奥深い。おぼろげでなんとも奥深いが、その中になにか形象がある。おぼろげでなんとも奥深いが、その中になにか実体がる。奥深くて薄暗いが、その中になにか純粋な気がある。その純粋な気は誠に充実していて、その中に確かな気がある。
現今から古にさかのぼっても、そのように名づけられたもの、つまり道はずっと存在しつづけており、(道の活動の中に)あらゆるものの始まりが見てとれる。わたしは何によってあらゆるものの始まりがこのようだということが分かるのかというと、このことー道がずっと存在しつづけ、玄妙な生成の活動を行っていることによってなのだ。

老子第25章(老子 小川環樹訳注 中公文庫)
形はないが、完全な何ものかがあって、天と地より先に生まれた。それは音もなく、それはがらんどうで、ただひとりで立ち、不変であり、あらゆるところをめぐりあるき、疲れることがない。それは天下(万物)の母だといってよい。その真の名を、われわれは知らない。(仮に)「道」という字(あざな)をつける。真の名をしいてつけるならば、「大」というべきであろう。「大」とは逝ってしまうことであり、「逝く」とは遠ざかることであり、「遠ざかる」とは「反(かえ)ってくる」ことである。だから「道」が大であるように、天も大、地も大、そして王もまた大である。こうして世界に四つの大であるものがあるが、王はその一つの位置を占める。人は地を規範とし、地は天を規範とし、天は「道」を規範とし、「道」は「自然」を規範とする。

老子第25章(老子 峰屋邦夫訳注 岩波文庫)
何かが混沌として運動しながら、天地より先に誕生した。それは、ひっそりとして形もなく、ひとり立ちしていて何ものにも依存せず、あまねくめぐりわたってやすむことなく、この世界の母というべきもの。
わたしはその名を知らない。かりの字をつけて道と呼び、むりに名をこしらえて大と言おう。大であるとどこまでも動いてゆき、どこまでも動いていくと遠くなり、遠くなるとまた元に返ってくる。
道は大なるもの、天は大なるもの、地は大なるもの、王もまた大なるものである。
この世界には四つの大なるものがあり、王はその一つを占めている。
人は地のあり方を手本とし、地は天のありかたを手本とし、天は道のありかたを手本とし、道は自ずから然るありかたを手本とする。

老子第21章は父性の立場から道について述べたものであり、第25章は母性の立場から述べたものである。
「道」は「おぼろげでなんとも奥深い」と表現されているが、元の言葉は恍惚である。小説家有吉佐和子は痴呆老人を恍惚の人と呼んだ。今では恍惚という言葉は呆け、つまり、たましいや意味を失った状態を表す言葉になった。元来は第21章にある「おぼろげでなんとも奥深い」「道」、それは精があり、信頼に値し、人が法って生きる「道」を表すのに使われた言葉であった。今では本来の意味とは全く違う意味に使われ、たましいがポケモンゲームのキャラクターに使われる現代にふさわしい「恍惚」になった。
私はこの老子の「道」の記述の中にたましいと類似のものを見出して、それを心理学の支えにしている。哲学者から「道」とたましいを同じものと考えるなと非難されるかもしれないが、心の実際にたずさわる私から考えると、「道」のようなたましいに従うと徳のある生き方になる。たましいの表れである夢や箱庭に従って生きると出会いが良くなり徳のある生き方になって人生が開かれると確信するようになった。だから、私は老子を心の支えにしているのである。ただ、私が納得できるのは第21章と25章だけである。その他は理解が難しい。河合隼雄先生は第37章の「無為にして為さざる無し」をモットウとし、心理療法面接で徹底されていた。それは私には頭ではわかるが難しい。だから、私は老子のすべてを受け入れているわけではない。
たましいは触れることも感じることもできないが、すべての人の心の底にあって人を支えていると思う。
たましいのメッセージは夜眠っているとき夢に出てくる。昼間はたましいのメッセージは届かないが遊び半分のときに出てきやすい。だから箱庭にはたましいのメッセージが出てきやすく、時間があれば作ってもらう。自分の考えや意図に対して心の中からなんとなくささやくようにかすかに選択の方向を指し示してくれるような感覚が生じる。このかすかな深層の動きほど重要なことを指し示しているように思う。それが道に従うことではなかろうか。
徳のある生き方をすれば、自分も人も幸せに生きていけると老子は言っている。徳のある生き方とはたましいのささやきに従った生き方なのではなかろうか。