たましいとは

1 はじめに

今年の心理臨床学会で「ある高齢者のたましいの軌跡」と題して自分の思い出や夢・箱庭を披歴して自分の歩んだ道を振り返って発表した。大会プログラムには自分のことは明らかにしなかったが、発表会場では自分のことだと言って話を進めた。聞いている人にとっては発表している本人の心の内容が出ているわけだからずいぶん聞きにくかっただろうとおもう。しかし、自分にとってはすごく有意義で、気づくところが沢山あって生きる姿勢がよくなったように思う。

最後に司会の先生から「たましい」とは何ですかと質問があったので、「あゝ、ここから説明しなければならなかったのか」と自分の不用意さに驚いた。指定討論の先生は精神分析で、司会の先生は動作法(催眠)の専門家だからわからなかったかもしれない。「たましい」という概念は日本古来のものだが、日本の心理学は欧米から輸入されたものだから「たましい」は組み入れられていない。ユング心理学の人も河合先生以外使っていないのでなじみがない。「たましい」とは何ですかという質問はユング派からも出てくるかもしれない。英語のspiritやsoulとは少し意味が違うように思う。日本のたましいは人にはもちろん動物にも植物にも時には岩にも石ころにもある。

2 たましいについての思い出

私は幼い時から虫などを見たら殺していたらしく、母親から「一寸の虫にも五分のたましい」と教えられた。また、幼いころから草の穂をしごく癖があった。草にも命がありたましいがあると思いながら草にむごいことをしている自分が嫌になった。自分はこれまでにあまり良い評価をされず、自己否定をしているから草の穂をしごくのではないかと思い、それを止めた。それは老いを感じ始めた頃でずいぶん遅かった。恥ずかしいことであるが、草の穂をしごくというのはむごいことだという心のささやき、多分たましいの警告を老いになってやっと受け取ったのだ。今では道端に捨ててあるゴミをみると、「あゝ、この人は認められず捨てられている人だ」と思うようになった。

3 広辞苑では

たましいを広辞苑で引くと、「魂。動物の肉体に宿って心のはたらきをつかさどると考えられるもの。古来多く肉体を離れても存在するとした。霊魂。精霊。たま。」とある。

人間だけでなく動物にも備わっているというのは欧米のspiritやsoulと明らかに違う。庭師が大きな木を切るときは木に宿っているたましいを抜いてから切る。木にもたましいが宿っているからである。

「心のはたらきをつかさどっているもの」という意味も認めると、どのようにつかさどっているのか考えなければならない。でもそれを説明するのは大変むつかしい。私のたましいの軌跡というのも、たましいがどのようなかたちで現れたかという意味合いではっきりしたものはない。

4 たましいの在り様

人も動物も、そして植物もたましいを持っていて、生き物が死ぬとそのたましいが肉体を離れて天に上る。古代から死んだ人は焼き場で焼かれ煙とともにたましいは天に上ると考えられていた。焼き場の上には沢山のたましいが集まっているかもしれない。

たましいは宿っているものからはなれてどこにあるのかわからない。人はもちろん動物のたましいも植物のたましいも区別がなくなる。たましいは名前のない個別性を失ったもので所在不明だ。つまり無名で無明の存在となり何処にあるかもわからないが、どこにでもある。

心には喜びや悲しみ、愛や憎しみ、意図や希望などで個別性がある。しかし、魂にはそんな個別性はない。名前の付けられない存在である。名前の付けられないものでありながら人や動物など個別の、名前をつけられる存在の心をつかさどっていると日本人は考えてきた。以上のようなことが広辞苑からわかる。

5 魂魄

魂魄という言葉がある。魂と魄はどのように違うのか。

魂は精神的なたましいであるが、魄はたましいでも、この世にとどまるという陰の霊魂と広辞苑では説明されている。

この世にとどまる霊魂というのは何だろう。しいて考えるなら死体、つまり体についているたましいであろう。

中国の考え方ではたましいを魂魄、魂と魄の二つに分ける。どこで読んだかわからないが、魂は精神的なものであり、魄は体にこもっているたましいである。

気魄という言葉がある。気に宿るたましいである。気とは息で身体的ある。人は戦うとき気魄がなければならない。気魄がないと負ける。議論でも気魄があれば相手を論破できるかもしれない。

たましいを魂魄に分けるのもむつかしく面倒なので、ひらがなのたましいという言葉を私は使ってきた。たましいを魂魄に分けること自体、たましいの無名性に反する。

5 たましいというエネルギー

たましいは無名の無明の存在でありながら、この世にもあの世にも存在し、しかもとてつもないエネルギーを持っている。あらゆるものがこの世に現れ出てくるときそれはすべてたましいのエネルギーを持っている。人々が大和魂を持って太平洋戦争に向かったとき、特に陸軍の幹部の人々は一億総玉砕を考えた。死んでも日本のたましいが残ると考えたのである。そのために全く勝ち目のない戦争を終わらせることが難しかった。多分原爆に対抗するほどのエネルギーを陸軍の幹部は大和魂に感じていたのではないか。

「たましいの抜け殻」という言葉がある。たましいの抜けた人、それは生きながら形だけ存在する人である。生ける屍だ。うつ病や進行した痴呆症の人たちはたましいを失っているようにみえる。病が癒えて元気になったときたましいは生きる力となって現れているはずだ。

たましいは人間の感情や考えや意図を支えているいのちである。目に見えず感じることもできないが、確かにある。内部で生きているいのちである。

6 命といのちとたましい

たましいはいのちになって現れる。ここでは命といのちを区別する。命は個人的な命、肉体の限りある命の意味で使い、いのちはキリスト教で言う永遠のいのち、仏教でいう無量寿、無限のいのちという意味で使う。キリストは「私はアブラハムの時代からあった」と言う。アブラハムの時代から永遠に生きている神のいのちが自分の中に生きているという意味である。ご先祖様から生きているいのちを生きているということである。ご先祖様とはたましいのことである。

7 仏教のいのち

仏教では仏陀が体験した仏の性質を仏性として考える。仏性は無量光と無量寿に分けられる。無限の光と無限のいのちである。悟りを開いた人の体験を読むとすべてが一瞬にして見えたと書いてある。無限の光で見たのである。無量寿とは限りのないいのちという意味である。私は社会人になってから何でこんなにつらい人生を生きなければならないのかと苦しい思いをして生きていた。社会に出たのに未だ成人になっていなかったのであろう。子どものままなので社会人として生きるのがつらかったのだ。だから長い間宗教書を読みあさった。それが功を奏したのか、何故かわからないがある時から全く読まなくなった。老境に入ったころで、エネルギーは使えば使うほど自分の中から湧いて出てくることがわかった。このエネルギーは食べ物でできるエネルギーとは違う。50代半ばで身体は衰えているのに元気になった。それ以来私は元気で風邪もあまりひかない。たましいのいのちである無量寿に触れたらしい。

8 むすび

たましいとは何かと聞かれ、たましいについて書き始めたら次々に連想が沸いて収取がつかなくなったので、ここらへんで一区切りつけ、後は次回に回すことにする。