いじめる側といじめられる側について

今年の日本心理臨床学会第37回大会が終わり、東洋英和女学院大学の篠原道夫先生と企画した虐待・ネグレクトに関する自主シンポジュウムが終わった。大変充実した会であったが、余りに内容が沢山ありすぎて十分に議論を尽くすことができず残念なところも沢山あった

そのうちのひとつを取り上げて自分なりに整理しておきたいと思った。

指定討論の花園大学の橋本和明先生からいじめる者がいじめられる側に容易に変わることがあるが、どうしてそうなるのかわからないという疑問が出された。橋本先生は元家庭裁判所の調査官で少年事件を数多く経験されているので、そのような例も多く見て疑問に思っておられるのではないかと思った。

私は中学一年の頃だったと思うが、同じクラスの子が廊下を通る弱い子に足をかけたりしていじめているのを見た。いじめている者も相手にしたくないようなつまらないやつだと思ったので正義漢の僕も見過ごした。その頃は正義漢ぶるのもばからしく損をするだけだとおもっていたから見過ごしたのだった。今考えると弱い者いじめをする者も関わりたくないような、取るに足りない者に見えた。

いじめる者もいじめられる者も同じような要素を持っているのだ。

今考えると、いじめる側もいじめられる側も共に多分家庭で父親や母親に厳しくされて愛されていないのだと思う。両者は紙一重の差でいじめる側といじめられる側に分れていて、ちょっと強気に出た方がいじめる側になるのだ。だから、いじめる側がちょっと弱気になっていじめられる側が強気になると立場が逆転する。こういう現象は女の子の間ではよく見られる。

このようなことは勝負の世界でもよく見られる。野球を見ていると、1回表からピッチャーが打たれノーアウト2,3塁なることがある。こういう危機状況でピッチャーになにくそ負けてたまるかと闘志が湧き気迫が漲ったとき、後の打者を凡打に打ち取って点を取らせないことがある。危機状況でのちょっとした気迫の差が勝敗を分ける。人と人の出会いもそんなものでは無かろうか。気迫が無いと強気にでられ、相手にされず無視されてしまう。これがいじめの心理で、普通の力関係の延長線上にある。