たましいの根づきと工場

  最近気づいたことだが、夢に故郷の山の景色と愛知のひろびろとした景色がつながって出てくるようになった。私の夢の舞台はずっと生まれ故郷の熊本であった。

熊本には坪井川と白川という二本の川があり、その二本の川の南が広く開けている。熊本地震の震源はその南の端の方である。

 思い返してみると、夢分析を受けていた当時、夢の舞台は二本の川の北側であった。京都から名古屋に移る時、繰り返し川を渡る夢を見た。多分、私のたましいにとって白川の南が名古屋方面となっていたと思う。しかし、こちらに移って45年になるけれど愛知を舞台にした夢はほとんど見なかった。それが最近、白川の南から見た山の情景と愛知の広々とした情景がつながって現れるようになった。

 愛知の情景は、はじめに住んだ春日井や長年勤めた愛知教育大学や椙山女学園大学など丘陵地帯の側ではなく、車でしか通らない豊明の境川の辺りである。

 この前は、熊本の南側から見た金峰山と豊明の境川の土手の近くが出てきた。そこは建物といえば、遠くの方に工場の残骸が見え、近くでは農家のおばさんが数人よってお茶を飲んでいるのどかな情景だった。

 この夢を見て、自分の心理臨床の経験は遠くに見える沢山の工場の残骸のように散らばっているのだと思った。

今私は自分の心理臨床のやり方に安住して心地よくお茶を飲もうとしている。くつろいで気楽に過ごしている。このところこのカウンセリングノートのエッセイを書くこともだいぶサボっている。エッセイを書かないのは、この夢が示すとおりである。自分の面接技法は良いからと宣伝する自己顕示の意欲は出ない。反対に、自分のこのやり方は他人にはできないと思うから伝えたいと思う意欲もわかない。私の箱庭の解説は面白いらしい。それで箱庭の研究会も続いているし、ソウルからも招聘してもらえる。しかし、この私の箱庭の見方を他の人にわからせる方法がない。これは言わば職人技で伝授が難しい。

 ある人が博士号を取得して金沢に行った。そこで土地の人から流れ者と言われたという。金沢の人は土地に根づき、独特の文化の中に生きている。そういう人から見ると、例え京都生まれの京都育ちの人であっても、金沢に来れば流れ者に見られるのである。

 農家育ちの三男坊の私は熊本から流れ出ないと仕方がなかった。中学を卒業し集団就職ですし詰めの列車で出てきた人たちと同じである。流れ流れて80歳に近くなってやっと根づいたと思う。

 師匠河合隼雄先生はどうだったろうか。スイスから帰国して間もなく西大寺の裏手に家を建てられた。車も入らないような路地に面して門があり、入るとすぐに玄関があり、座敷があって、庭がある。庭の向こうは田んぼで、その向こうには関西の文化住宅があった。門から玄関までがあまりに近いので、文化庁長官がこんなところに住んでいるのかと誰だったか驚いた。でもその家の二階の書斎はたましいのフル稼働の工場だったに違いない。私はたましいの根づくところは見つけたが、まだ工場は立てていない。仕事はこれかららしい。