明けましておめでとうございます
昨年は色々と外に向けて考えることが多く、自分の内面に目を向けて、カウンセリング・ノートを書く時間が無くなりました。
春から考えていたイタリア旅行、実際に目にした「ピエタの像」、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」、中世の騎士の武具の巨大さ、世界の国々から来た観光客の波、それらは私の内面に洪水のように溢れました。
読んだ本にも興味をひかれ呑み込まれました。
孔子伝を読み、自分にも似たところがあると思い、米原万里の本を読んでは自分はたましいの言葉の通訳者だと思いました。
米原万里の本を読みだしたら次々に読まずにはいられないようになり、井上ひさしが評した「前のめりに驀進する」彼女の生き方に引き込まれてしまいました。
米原万里を通じて知ったロシアの人間的な豊かさは探求の価値がありますが、それを知るには原文で読むことが必要で、不可能なことです。
教員を辞めてから読んだ中国の古典に現代中国を照らし合わせて眺めると、中国の生き方は基本的には何も変わっていないのです。文化は言語とともに何千年も変わらないのです。私たちが相手にしている個人や家庭の文化は変わり得るのでしょうか。
ロジャースは人格変化を、ユングはコンプレックスの解消を考えました。そういうことは本当に可能なのかと疑問を持ちました。箱庭のイメージが変われば、人はどうなるのか十分な説明はできません。
今の日本はアメリカの属国のようです。英語さえ出来れば世界に通じると考えています。しかし、それは英語が通じるところだけで可能なのです。多分それも経済ビジネスのレベルだけです。
昨年秋6年ぶりにソウルに行きましたが、街はハングル文字だけになり、漢字や英語の表記があるのは交通機関だけです。ハングルがわからなければ韓国で生活することはできません。同じことが中国にも東南アジアにもいえます。
精神分析やユング心理学だけで人々の心の世界をわかろうとするのは、英語だけで世界に通じようとすることとどこか似ていると思います。けれども何か国語も身につけられないように、全ての人の心理に通じる心理学を見つけることはできません。
省みると、私はフロイトに飲み込まれ、ユングに飲み込まれ、そして今は孔子や米原万里に呑み込まれていました。これを自分の主体性の危機と考える私は自分の心理学をしっかりと保持しなければなりません。
そこで私は人間という動物が持つ意識下の動物的な感覚を働かせながら、いろいろな方々の生き方をかかわっていくことで、人々にやくに立って行きたいと思いました。
これが念頭の所感、ホープです。
今年もよろしくお願い致します。