箱庭の表現から見た発達障害

私は長い間発達障害というものが理解できなかった。自分を省みると発達の遅れているところはいくらでも見つかるから、自分も発達障害と言えると思っていた。
 しかし、最近になって中々良くならないクライアントの箱庭を見て、なるほどこういうものが発達障害と言うのだとわかった。それは一般に言われている発達障害とは違うかもしれない。私の発達障害は箱庭の表現に基いて考えたもので、こだわりが強いとか、注意散漫で落ち着かないという状態像から判断したものではない。
 成人で社会的な適応の難しい人の一群に、箱庭の表現に中心が無く、色々なものを散漫に並べたものがあった。そこには自分を表すようなものがなく、本人に聞いてもわからない。
箱庭の中に自分を考えたことはありませんでしたという人はいっぱいいるが、大抵は家や大きな木が中心になっていたりする。
 箱庭に置かれたものの構成がゆるく、色々なものが散在している。分割と統合と言うものがない。分割されていると、少なくとも私には理解できない関係が背景に秘められているのだろうと考える。中心のない箱庭を見て、分割のない散在したもの全体に出会ったと感じた。
 それは未だ男根期を経過していない肛門期の段階の箱庭と言えると思う。カルフ(Kalff.D)は箱庭表現の発達段階として、マンダラに始まり、動物植物の段階、戦いの段階、社会化を挙げた。この発想はノイマンが神話から見た自我の発達段階として考えたものを借用したものである。ノイマンは『子ども』という著書で、動物植物の段階と戦いの段階との間に男根的(英雄的)段階を設定していたが、何故かカルフはこの段階を取り上げていない。カルフは身体も大きく如何にも大きなお母さんという感じがして、本当にグレートマザーだったのか、男根的な主体的な子どもを認めず、いつまでも子どもを子どものままにしたお母さんだったのかもしれないと私は思う。
 男根期の段階は人格の成長の観点からは極めて重要で、主体性、エリクソンの言う主導性、イニシアティブが発達する時期である。このイニシアティブの段階で自分は自分であるという感覚が出てくる。自分があると他者を認知することができる。自分と他者の間に境界ができる。これが自我境界である。境界が出てきて分別が生じ、良いことと悪いことの区別も出てくる。ルールがわかるようになり、ゲームが出来るようになる。相手との関係は戦い、つまり感情を伴ったコミュニケーションを通じて人間関係の葛藤を経験する。戦えるようになって始めて社会化が生じてくるのである。
 発達障害は人間関係の葛藤を経験する前の主体性の段階を十分に通過していない人の特徴で、未だ肛門期の段階にとどまっている人のことである。
 肛門期は生活習慣を獲得し、人並みに何かができるようになったことを褒めてもらいたい時期である。言葉を憶え言語表現が豊かになり、身体的にも発達して運動能力も発達する。人間関係は未分化で一対一の関係ではない。みんなで遊んでいるように見えて、一人遊びの集合である。遊びの関心は自分の好きなことに集中してこだわり、人の意見を聞き入れにくい。空想と現実は未分化である。幼児期の思い出に、スーパーマンになって空を飛べると思い窓から飛んで、窓の外の小川に落ちて助かったと語った人もあった。この事例を考えると、ベランダから転落する子どもの事例は空想と現実の未分化が原因ではないか。
 男根期の入り口は性の分化である。発達障害はその性の分化もしっかりしていないことがあり、結婚してもセックスレスで過ごせる。自分の判断がないのでどうすべきか判断に困る。
 知的な能力があると色々なことができる。ITも技術を習得すればできる。ITの仕事は感情抜きでできる。証券マンとしても十分才能を発揮できるかもしれない。自分と顧客の間に感情が生じると危ない取引には躊躇するだろう。しかし、感情が薄ければ自分が儲かると思えば顧客が損をするかもしれないと思いながら成約を得て儲かる。自分の主体性がないから情況を周囲の様子を見ながら判断することになり、周囲の期待に沿って以外に業績を上げることができるかも知れない。自分で判断せず占いに頼ることもあるだろう。ときにはその判断もできず、自己主張もできずに引きこもることもあるだろう。
 色々なものがバラバラに統合性を欠いて散在する心の世界は、色々な才能や考えはあるが、それを自分のものとして使いまとめることができない。つまり人格の分化と統合ができていないことを反映していると私は考えることによって納得している。
 発達障害とは主体的な自我の欠如である。