祈りモードと遊びモード

私たちの生活のなかに祈りモードと遊びモードという2つの生活モードがあることに気がついた。

祈りのモードでは自我の主体性がほとんど消えてしまう。言わば、職人の仕事で、いつも決まりきったパターンで何かをする。例えば、壁塗りの仕事で、その日の気温や湿度を感じながら壁土の調合を判断し、その日に合った壁ぬりをしていく。その日の条件にかなった調合の判断は永い経験に基づいた知的な判断で、自我の主体性はほとんど入らない。その判断で毎日同じように仕事をする。だから、仕事の時間も毎日きちんと決まっていて、8時半に仕事を始め、午前中に1回休憩し、昼食を摂って、午後に1回休憩し、4時半に終わるという具合である。職人仕事は堅気の仕事である。堅気な人はたいてい青年期に不良になったりして遊んでいる。いわゆる悪を経験した確かな人間で、知的な合理性よりも仁義を重んずる人たちである。

 

このような仕事の進め方は祈りに似ている。私たちは心を改め神前に進み、神仏に頭を下げ柏手を打ったり手を合わせたりして祈る。ある人はお願いごとをするかもしれないが、基本は神仏を前に無心になることではないか。無心になって決まりきった動作をする。それが祈りである。このように無心になって決まりきったことを進め、時間が来たら終わる。それが祈りモードの生活である。

家事もそのような祈りモードの生活である。食事を作り掃除洗濯をして生活の場を作る。そこに祈りがあるはずだ。漢字語源によると夫婦の婦とは女と箒が合わさった文字で、神前を箒で清める女の意味である。基本は祈りだから外に出て動きまわる男からは何もしない人に見えるのではないか。

祈りの中心部分は無心になることだ。何かしていようとしていなくても、そこに自我の主体性はない。

祈りの極点は瞑想である。瞑想は何もしないことである。瞑想しているとき頭は働かないが、身体は生きている。身体の動きを最高に整えること、それが瞑想であると思う。只管打坐とは身体の主体性に任せるということではなかろうか。

 

一方、自我の主体性を最高にして楽しむ生き方がある。遊びモードの生活である。創作しながらダンスしたり歌ったり、あるいは物語を書いたり漫画を描いたり、お笑いのネタを作ったりするとき人は自分の主体性に身を任せている。そういう遊びモードでは身体が酷使されることもある。体力の限界まで自我の活動は突っ走ってしまう。危ない岩壁の登坂、限界を超えて走るレースでは身体が死の危険にさらされる。遊びモードは楽しみもあるが命の危険も伴う。

 

祈りモードが静であるのに対して遊びモードは動である。前者はうつ(鬱)のモードで、後者はそう(躁)のモードである。メラニー・クラインの心理学に依れば、うつ状態からは何か新しいものが生まれるが、そう状態からは新しいものは何も生まれない。祈りから新しく生きる力が生まれ、遊びでは蓄えられたエネルギーが消費される。心的エネルギーの貯蓄と消費、それが生活の祈りモードと遊びモードで、両者は相反するものでありながら、人の生活の中でダイナミックに交互に生じているはずである。それは自然の摂理である。

人はエネルギーを消費してうつになる。うつになったらうつのまま、エネルギーが貯まるまで待つのが最善のことではないか。うつを自我の主体性で治そうとするのは自然の摂理に反することではないか。「うつは治そうとする努力をやめれば治る」という大住誠の説は妥当だと思う。

 

〈次へ  前へ〉