夢は情況をキャッチする

あるスクール・カウンセラーが次のような夢を見た。「A先生とB先生の部屋のドアに何やら張り紙がしてあった」。

この夢を見たのは教員移動の内示の翌日で、まだ、彼女は二人の先生の移動については全く知らなかった。新学期になってみると、A、B二人の先生には役がついて忙しくなり、昨年度まで色々なことで話合いをすることができたのに、今年度はあまり話合いができなくなっていて、夢の示すところに驚いたのである。

夢は意識が知る前に情況をキャッチしていたのである。こういう夢を予知夢というが、予知夢というと何か訳の分からない神秘的な出来事で信頼に値しないように受け取られる。

無意識の夢の心、夢を送り出す深層の心は人が置かれている情況をキャッチしているらしいことがこれでわかる。意識的にわかる五感、それを元に考える意識の働きの他に、眠りの中の、意識が眠っている時に少しだけ顕在化する無意識の心があり、その無意識の心は意識よりも賢いところがあると考えなければならない。

フロイトやユングは無意識を意識に対立するものとし、その働きを阻害すると考えていた。

それに対して、数学者ポアンカレは「無意識は意識より賢い」と考えた。(『 科学と方法』1908)何故なら数学上の発見は無意識から偶然に出てくるという経験があったからである。考えてみると、数学自体が精神世界、つまり心の中から創りだされている。コンピューターの世界も元々は数学によって支えられており、それらはすべて無意識の中から出てきたものである。私たちが感動する芸術も意識を超えた無意識から創りだされていることを考えると、無意識の中に人を導くものがあると考えても一向に差支えはないのではないか。私たちが使うものはすべてデザインされている。デザインが優れていればものが売れる。このデザインがすべてデザイナーの無意識から出てくるのである。

意識と対立するところの無意識の中にもっと素晴らしい心があって、それが生きている個人の存在を支え、情況を察知して人生を導いているという仮説に私は立ちたいと思っている。

無意識の心には、善悪二つの側面があり、良いことばかりとは限らない。河合隼雄は『猫だましい』という本の中で、セルフにも影があると示唆している。(それはハードカバーの『猫だましい』のカバーの裏にあった村上春樹さんの猫の写真の影と使って述べてある。文庫版になった本にはそれはない。)無意識から意識に登って来る時、意識が内的な欲望に動かされているから、意識が感じ取ったものが良いものかどうか慎重に検討する必要がある。その点深い夢は意識の関与が少ないのでかなり現実にマッチして理解されるように思う。夢は意識的な考えよりも信頼に値すると思う。

夢を送り出す心は覚醒時も働いているはずだが、意識的に感じ取ることはとても難しい。身体でも感じ取れない。せいぜい予感として漠然と感じられる程度のものではなかろうか。何となく心がスースーするとか、何となく不安とか、雲行きが怪しい感じとか、そのレベルの全く言語化できないレベルのものである。

感じ取るとすれば、その人と周りの情況のありさまとその変化の過程を振り返ることによって若干推測が可能なときもある。A先生とB先生の昇格は年令や経験から見れば、人事管理をする校長の立場に立って考えれば予測がついたかもしれない。

自分の立場ばかりでなく、周りの人の立場になって考え、もっと広い立場からものごとを見ることが出来るならば、夢の心が見ているようなもっと広く深い情況をキャッチ出来るかもしれない。精神的な視野の広さや深さ、そして謙虚な態度が重要である。ころころ変わる愛や嫌悪の感じ取れる意識の心のレベルではなく、生きている情況をくまなく冷静に感じ取っている深層の心を頼りにする生き方が尊重されてしかるべきだと思う。

そこに私の夢分析は基礎をおいている。