カウンセラーの病

気がついたら最近めっきりエッセイを書くことが少なくなっていた。

そして、最近痔が悪くなって、かかりつけの医師に診てもらったら、大痔主ではなく中痔主だと診断され、珍しく服薬することになった。薬は飲まないで済ませたのだが、今回は仕方がない。服薬も座薬も用いることにした。中々治らないから、中々効き目が現れないといったら、中々治らないと簡単に言われた。それでも今回は服薬を続けることにした。痔という病は恥も外聞も気にしなくなるための重要な病ではないかと以前から思っていたから、敢えてここに書くことにした。

時々カウンセラーは人の悩みを沢山聞いておかしくならないのですかと聞かれる。
多くのカウンセラーはおかしくならないと思っているが、本当はかなりやられていると思う。ハッキリとした病、私の場合だとこの痔核などのように顕在化しないと自覚しないのではないか。

専業カウンセラーになって7年、椅子に座り続けの生活をし、運動もしないから痔が悪くなっても仕方がない、自業自得である。

痔の病の象徴的な意味を考えると、最近中々エッセイを書かなかったことと関係しているに違いない。

エッセイを書くことは自分の中に生じてきたものをまとめて出すということである。痔病は便秘と下痢が一番の原因であるとされている。私の場合は便秘だった。つまり溜まったものが中々スムーズに出ない、書くことが難しかったことが心理的な原因であろう。

私のエッセイは私の中から出てきたものだ。それをみなさんに読ませるのは甚だ申し訳ない。河合先生は、毎朝の祈りのように6時から8時まで書いておられた。その結果、紫綬褒章を頂いたと挨拶された。河合先生にとって書くことは祈りの時であり、私の場合は排泄の時になっていたのかもしれない。この違いは大きいから考えねばならない。つまり書く姿勢の問題である。

この最後の部分は、このエッセイを書いているうちに出てきた。河合先生は云々と書き始めたら出てきたのだった。この部分は、祈りのうちに出てきたのではないか。祈りのうちに書けば、書く内容も変わってくるに違いない。こうして痔、自分の病が治っていけば幸いである。