占い

今日ある占い師さんから、最近ブログにエッセイが載らないので何か書いて欲しいという催促があった。こんな時に占い師さんからの催促、シンクロニシティである。

私は最近占いに凝っている。そして占いをしてみたい人のために筮竹も作って上げている。筮竹は買えば3千円もするが、日用品の店に行ってBBQ用の竹串が丁度50本一束2百円で売っている、それで十分である。片方の先が尖っているので、カッターナイフで適当な長さに切る。筮竹を作ると言っても面倒さはそれだけである。3本も切ると刃が毀れるので新しくしなければならない。それが面倒なだけだ。上下を考え、長さを気にしなければ、28センチだからそのままでも良い。

最近東京で暇な時間が出来たので、上野の国立博物館の東洋館に行ってきた。古代中国の文化の素晴らしさに驚いた。一つ一つの作品に作者のいのちがこもっている気がした。本当に生きている人が作ったものだという感じがした。これらを作った人たちはいのちがけで生きていたのではないかという気がした。

ふらふらと見て歩いたので、最後に見たのが甲骨文字のところだった。

甲骨文字はすでに知っていたから、その甲骨文字で何が書いてあるかその内容に興味があった。解説の小さな文字を読んでいくと、そこに「今晩、危ないことは起こらないだろうか」とか、「明日は雨が降らないだろうか」などを占っていて、当時は太陽神に守られて生活していたので、日が沈むと何が起こるかわからない怖さがあったと書いていった。雨が降るか降らないかは、雨乞いをすべきかどうか、その判断の根拠としては重要であろう。今晩危ないことは起こらないだろうかと占っていたとすれば、もしかすると、頻繁に占いを行っていたのではないかと考え、興奮して出てきた。

私はこれまで極めて大事な時しか占いを立てていなかった。大事なときに占うと易経は良い加減の視点を与えてくれるからである。

筮竹で占うのは、合理的知的な世界から見れば深層の無意識の世界である。フロイトは、それをわからない世界、意識の世界に対して何か悪いことを行うところに見立てたが、数学者ポアンカレは、無意識は意識より賢いと考えた。フロイトは、無意識は悪人説、ポアンカレは善人説である。しかし中国は善悪両方である。善悪両方ある世界を、できるだけ安全に生きていくために占いが必要だった。その占いの世界の、変転極まりない世界のダイナミックスを考えたのが易経である。

臨床心理士が深層世界と関わりをもとうとするなら、易経は必読の書ではなかろうか。筮竹で毎日占って見るのも良いかもしれない。

明日奈良に行くけれど、何か良くないことが起こりはしないか?さて占ってみようか。

擲銭方によって占うと大畜。初爻が老陰の陽、変爻であった。危うきことあり已むによろし、進んで災いを起こすなとあった。

翌日、25号線に入ってしばらくしてと渋滞になった。はてなと思ってしばらく行くと警察の赤ランプが見え、事故が起こっていた。対向車線から飛び込んだらしい車が仰向けになっていた。走行車線を走ってこの車に出会ったら即死だったに違いない。

帰りはナビによって、亀山の渋滞を迂回し、最初より8分早く帰宅できた。最近のナビの有能さに驚いた。ナビと占いは全然違う次元で、現代人は知的には確かに助かっているけれど、思わぬ出来事に関しては、まだ、占いが生きるのではないか。