優柔不断でなく慎重なのだ

 ある青年がクリニックからの紹介で昨年から来談している。彼は心配症で学校でも家でも何か心配で自信がない。学校にも行けて友達とも適当に付き合っていて、不登校というわけでもない。いつも自身がなく投稿を辞めようか思うくらいである。その心配のために母親と相談にやってくる。別々だったり一緒だったりする。

カウンセラーは話を聞いて先ずは自分の考えにしたがって問題を分類しようとする。お医者さんが精神症状を見て、うつ病系の薬を使うか、統合失調症系の薬を使うか判断するのに似ている。

 最初話を聞いた時、彼が生まれた当座、母親は夫の仕事の都合で実家を遠く離れ、かなり不安な状態でその子を産んだので、その不安のために子どもも不安になったのではないかと考えた。そのことが原因で今の状態になったとしてもどう対処してよいかわからない。親に原因を押し付けたまま解決法が判らないでは困る。

 その後、発達的な側面からも考えた。彼は何事も決められない優柔不断なところがあり、しかも外へ自ら出向くことが苦手なところがあるので、男根期の問題を経過すべきなのかとも考えた。それは今丁度年齢的にも成人式、通過儀礼の時期に当たっていて、死ぬほどの苦しみを経過する時期でもあるのでその話もしてみた。

 しかし、何事も決まらず、外へ出向ことの難しさを考えていくうちに、同席して面接している母親から、歩き始めた頃、壁に手をついて、その手を話すことが中々できなかったという話が出てきた。その頃から彼は何事にも慎重だったのである。この慎重さが彼の基本的な性格なのだ。この慎重さを大切にすることを大切にすることが重要ではないかと考えた。

 慎重さとは一種の強迫性である。強迫傾向は大切にしなければならない。彼が作った箱庭療法にもそれを証拠立てている。緑の草叢が中心にあって、その周りを沢山の動物が取り巻いている情景を彼は作った。彼の自我の中心は植物である。

 何事も決められない優柔不断さを問題にすると彼は何か困難なことに挑戦しなければならなくなるが、彼の基本的な性格は慎重さがベースなのだと考えると、挑戦すべき課題はなくなり、彼の慎重な生き方をより徹底的に生きることを考えることになる。

 

 これが果たしてうまくいくだろうか?