自我のない心理学Ⅱ

 制作された箱庭から見ると自分をどう位置づけたらよいかわからない人が多くなってきた。

 フロイトは自我は内的な欲求であるエスとの葛藤により成長していくと考えた。ところが現代は何もかも物質的に満たされた時代になって、これといって特別ほしいものはないし、したいことは特にないと思う人が増えてきた。そして何をしてよいのかわからない自分がいる。親が残してくれた財産があってそれを管理すれば一応の生活はできるという人がある。しかしその不動産管理も不動産屋がやってくれると、ほとんど何もしないで暮らせる。親譲りの財産で優雅に暮らしていける昔の貴族の生活が庶民の中にいつの間にかあらわれていたのである。カウンセラーとしての私はいまさら働くというよりも働かないでみんなと楽しく生活する生き方を考えてはどうですかと提案する羽目になった。親の残した財産で生きる人の悩みは人並みに仕事をしたいということであった。その人はそんなにあくせくしなくても食べていけるのだから、人並みに働きたいと言ってもあくせくしない働き方を考えるのではないか。そうでないとみんなと人並みにならない。適度にあるお金であくせくしない生き方、それが今一つの生き方になるのではないかと私は考えた。

 今の時代は、自分というものをあまり誇示しなくても済む。みんながしているようなことをし、みんなの遊びに参加して、マスコミの話題になっているようなことについていけばいい。大して葛藤しなくても済む。みんなの動きに合わせていければよい。このような時代には葛藤による自我の成長など考えなくてよいのではないか。

もともと人間はこのようであったのではないか。

 村上春樹は小説が自我の葛藤によって書かれるようになったのは20世紀だという。日本では夏目漱石以後である。それ以前は物語の世界であった。圓朝の怪談話にそれを見ることができる。物語は主人公の自我の葛藤ではなく、人間関係の恨みや負い目という、心の貸し借りの問題であり、心の貸借対照表、バランスシートが出来上がったとき物語はおわる。親殺しが成功して物語が終わるのではなく、恨みが果たされて心が平静になったところで決着がつく。フロイトが取り上げたエディプス王の物語も、たまたま道で行き会い、互いに道を譲らず戦って殺した相手が父親で、都に入って出会い結婚した相手が母親であったという物語である。彼は意図してしたわけではない。たまたまそうなっただけの話である。そのことを知ったエディプスは自分の至らなさを恥じ、目をついて荒野をさまよう人となって物語は終わる。エディプス王に自我の葛藤はない。知らずに罪を犯した自分を自分で罰して終わるのである。すごくあっさりしている物語である。

 フロイトはこの物語の中から父親殺しと母親の近親相姦を取り上げて精神分析を作り上げた。それはフロイト自身の内的衝動との葛藤であったと同時に20世紀の時代精神の問題だったのではなかろうか。

 21世紀の今、ある人々は父親を尊敬し、母親の期待に添う生き方をして成功している。そこに親との戦いはない。一方、両親に恩を感じない人はそれぞれに自分の人生を見つけ、親と離れて生活するようになった。とりあえず自分が生きられる仕事を見つけてせいかつしている。そこに自我の葛藤はほとんどない。自分のしたいことと仕事に妥協点を見出しているのだろう。自我を無くした方が今の時代は生きやすいのではなかろうか。何事も流行に合わせて生きるのが一番楽な時代である。

 今この時代に自分を大事にする人は外に自分に合うものを見つけることができず、引きこもりになっていることが少なくない。

 自らを省みると、流行についていけない自分がある。引きこもりになってもおかしくない自分である。

 時々、仕事をいつ辞めようか、毎日暇になって方々を見て歩くかと考えるが、美しい景色を見て感動し、異国の町を見て感動し、その思い出をたくさん持ってあの世に行くのも良いかもしれない。そこに自我の葛藤は起こらない。

 しかし、私には今の仕事が楽しくて仕方がない。毎日が発見の連続で面白い。新しい気づきがある。悩む人があって、悩みについて真剣に話をする。これが面白い。悩んでいる人に面白いなんて失礼な話だが、次に何が起こるか楽しみである。

 考えてみると、歳や立場も一応意識しているのだけれど、自我を忘れて聞き、心に浮かんだように発言し行動していると思う。これは自我のない心理学ではなかろうか。

 

 

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