自我のない心理学Ⅰ

 今、相談室にお出でになる方々に毎回箱庭制作をお願いしている。箱庭を見て自分はどこかに居ますかと尋ねると、自分がいないという人が少なくない。私から見ても、その人を象徴するようなものを特定できなことがある。自分を象徴するようなものが存在しない、すべてが平等にある世界が多く出てきたのである。

 この個性強調の時代に自分を出すことを控えた人々が多くなったことが箱庭表現から読み取れるのである。自分と他の人と区別はあるものの、すべては平等に存在している世界、それは対立のない、戦いのない、平和に生きようとする人々の出現を意味している。本当に平和憲法に生きる人々が出てきたのだと思うこの頃である。

 自我のない心理学は考えられるだろうか。自我という概念がなかったらおそらく精神分析はもちろんユング心理学もないだろう。今の臨床心理学も自我なしでは何ということだろうと想像もできないのではないか。

 今年7月発行の新潮社の季刊雑誌『考える人』に村上春樹ロングインタビューが掲載され、その3日目、88ページに小説家と自我の問題が述べられている。

 「―「完全な小説家」というものは、少なくとも一九世紀まではいた・・・ディケンズもドストエフスキーもトルストイも、バルザックもスタンダールも、自分が物語を書くということに対して、おそらく疑問を感じることもなく書いていた。ところが二〇世紀に入ると、・・・それぞれみんな矛盾を感じながら、袋小路を個別に抱え込んでやっていかざるを得ない。漱石も同じです。自分を意図的に袋小路に追い込み、近代的な自我というものに向き合わずして小説を書き続けることができなくなった。・・・フィッツジェラルドにしてもヘミングウエイにしてもやはり自我とじかに向き合い、外界と相対する自我の有りようを、そののたうち回りかたを描かずには、自分にとっての意味のある物語を立ち上げられなかった。そのための装置を考え抜いて工夫しなくてはならない。依って立つそれなりの思想も必要になります。だから彼らは苦しむことになります。―」

 著者の自我の葛藤のない物語の書き方があるなら、それと同じ心理があってもよい。知覚や感覚を問題にした五〇年前の心理学、ネズミの学習心理学は自我のない心理学だった。そこにフロイトの精神分析やユングの分析心理学という自我と無意識の葛藤を研究する心理学が出てきて私たちの臨床心理学を作った。そして、今認知行動療法がはやり始めた。この認知行動療法には自我の葛藤は問題にならないのではないか。

 このような自我のない心理学の時代に箱庭療法はどのように生きられるのか考えなければならないと思った。自我は内面にコンプレックスを持っている。そのコンプレックスがイメージを産出して、自我と無意識の調和を図っていくというのが箱庭療法の基本的な考え方ではないか。しかし、自我を無くしてしまうと、無意識から生じてくるイメージは何をどうしていくのか、働きかけの相手を失ってしまうことになる。

箱庭療法の事例研究を見ていると、自我という言葉を果たして使わなければならない場面がどれだけあるか考えると、もしかしたら、今の自分の立場では全く必要がないかもしれないと思うのである。

 私の箱庭療法はすでに自我のない心理学の世界に入って行っているのではなかろうか。