深い傷の癒しとしての個性化

 

 他人の人生はその人自身のことだから問題を見つけてもできるだけ何もしないでおく、という生き方がある。それで満足する人は何もしないでいいほど、親や周りの人にしてもらって育ってきた人か、あるいは、反対に何もしてもらえなかった人であろう。してもらえなかった人はしてやるすべも持たず、してやるチャンスを見つけることができないかもしれない。

 困っている人を見ると、何もしないではいられない人がいる。何かしてあげたくなる。そういう人は自分がしてもらいたいときに十分にしてもらえなかったから他の人にはしてあげるのかもしれない。時には必要以上にしてあげて、相手が自分でするチャンスを奪ってしまうことがある。そういうのはお節介である。お節介な人は、お節介をしないではいられない自分の深い傷に触れることを避けている。おそらく自己認識なしに他人に問題を見出しているのである。

 心理面接法ではお節介は良くないが、あなたの問題はこうですと、わかっていれば言ってみるのも良いではないかと思う。これは問題を指摘することだから、何かをしてあげる方に属する。

 あなたの問題はこうですと言ってあげることは、相手を深く傷つけることになる。それは痛ましいことだが、そのことによって自分についての自覚が深まるとすれば、自己認知が一段と深まることになる。

 反対に小言のようにあなたはこうだああだと簡単に言われると、自己認知は深まるどころか、相手に対する拒否感が出てきて、自己認知の拒否につながる。そんな小言的な指摘はしない方が良い。このようなことは一回きりの箱庭制作会で生じやすい。一回きりの箱庭では簡単なことしかわからないからである。

 もし問題の指摘をするとしたら、その人の存在にかかわるような深い問題の指摘がなされなければならないのではないか。根深い問題の明確化はしても、すぐには何も解決しないのだからしない方が良いという考え方もあろうが、深い問題の指摘の方がより安堵感と生きる勇気を奮い立たせるように思う。どうにもならない、どん底の安堵感とそこで生きなければならない忍耐の自覚が生まれる。

そ いう深い問題に自分でおのずからかかわることができている人もあれば、できない人もあるできる人は幸いだが、できない人は教育分析を受けることによって深い問題の認識にかかわらざるを得ない。

 私は幸い分析を受けることができたが、何も指摘されなかった。しかし、不思議なことに何も指摘されなかった分、自分で自分のことを考えなければならないという自覚が深まったことは確かである。これは分析家の生き方をいつの間にかとりいれたということではないかと思う。自己認識ということは科学的でまるで写真を取るような語感があるけれど、それは自分を深く傷つけることに他ならない。深く傷つくとそのために何かをしないではいられなくなる。それが個性化である。個性化をしようと思うと全力を傾けなければならない。ご苦労なことだが気づいたらやるより仕方がない。

 自分の深い傷を癒すために何かをすると周囲の人にもいろいろと迷惑がかかるかもしれない。自分の能力の発揮としての自己実現は人迷惑にならないが、自分の傷の癒しは人に迷惑がかかることが多い。自己実現と個性化では相当に異なる。この全く違うものを今まで一緒にしていたのだった。