新しいトゥーランドット

 この秋ソフィア国立歌劇場の歌劇『トゥーランドット』を見た。トゥーランドットは知らなくてもパバロッティがものすごい声量で高らかに歌い上げる勝利の歌『誰も寝てはならぬ』は多くの人が聞いているだろう。ソフィアはブルガリアの首都。そのブルガリアはヨーグルトやバラの香水で有名な農業国で、伝統的な文化を守っていると思っていた。ところが今回の新しいトゥーランドットを見て、東欧は進歩的なのだと改めて思った。

 トゥーランドットの物語は中国の物語である。昔々韃靼との戦争に負けロ・ウ・リン姫は攫われ、清純無垢の身体を汚され死んだ。そのロ・ウ・リン姫の魂の甦りと信じるトゥーランドットは、結婚を望む者は三つの謎を解かねばならぬ、解けなかったら首をはねられると決めた。何人もの王子がその謎に挑戦したがみんな解けず無残にも首をはねられた。そこに祖国を失った王子がやってきて、人が止めるのも聞かず、謎解きに挑戦する。

 三つの謎とは、一つ目は“闇の夜に、虹色の幻が舞う。それは高く昇り、翼をひろげる、暗い無数の人々の上に!世の皆、それを呼び、世の皆、それを求める!だがその幻は暁とともに消える、心のうちに甦るため!それは夜毎に生まれ、日ごとに死に行く”。その答えは「希望」。

 二つ目は、“炎同様に跳ね飛ぶがそれで炎ではない!時に熱狂である!たぎる熱であり熱気である!無気力はそれを淀みに変える!人が破れ、あるいは死ねば、冷たくなる!人が征服を夢見るなら、燃え上がる!人が不安のうちに耳傾ける声を持ち、また夕暮れの鮮やかな輝きをもつ!”。答えは「血潮」。

 三つ目は、“人に火を与える氷、してその火よりなおいっそうの冷たさを得る!純白にして暗い!もし人を自由にと望めばいっそう僕となす!人を僕として受け入れれば、王者となす!”。その答えは「トゥーランドット」。

 三つの謎の答えから考えると、トゥーランドットは将来への希望も熱い血潮も持っているが、男の前では氷のように冷たく、男が熱を上げるほどに冷たくなり、希望も情熱も抑圧してしまうタイプの女性である。『トゥーランドット』はそういう女性の心を開く物語である。

 王子は三つの謎を見事に解いたので結婚を要求する。しかし、トゥーランドットは父王に結婚したくないとダダを捏ねる。そこで王子は今夜のうち、夜が明けるまでに自分の名前を言い当てたら私は死ぬと約束する。そこで王子の名前探しをすることになり、王子はあの有名なアリア「誰も寝てはならぬ」を歌う。クライマックスの始まりの歌である。王子の名前を知る祖国の王の側女リュウは王子への愛のために自ら命を絶つ。夜が明け、トゥーランドットは私の栄光は終わりましたと泣く。氷のような女性が泣くとは氷が解け始めたことを示唆する。王子は自分の名前を明かす。それに対してトゥーランドットは民衆の前に出て、父王に王子の本当の名前は「愛」であると歌い上げ、全体が喜びに包まれる。そこには当然結婚が予想される。

 ところが今度の国立ソフィア歌劇場のトゥーランドットは、王子カラフと並び立つことなく、一人舞台の袖に消えていった。おそらく涙を流すことは流したが、男の元から消え去ってしまうのである。あくまで結婚を拒んだ強い女性であった。

 このように王子の愛を受け入れることなく去っていくトゥーランドットは初めてだった。台本を見ても最後は結婚を暗示するようになっていると思う。それをあえて、あくまで結婚しないままにしたブルガリア人の現代的な意図が印象深かった。

 私は先に東欧は進歩的だと改めて思ったと書いたが、それには訳がある。

 今年名古屋で公開された映画『コミュニストはセックスがお上手』を見ていたからである。この映画は東西ドイツの性に対する考え方の違いを描いたドキュメンタリー映画である。第二次大戦が終わり、ドイツが東西に分裂すると東の男性は挙って西へ移動した。そこに東西を分断する壁が築かれ東ドイツは男性が少なくなり、女性は男性の仕事である建築現場などで力仕事もするようになった。その結果女性は経済的に豊になり結婚問題も生じた。様々な問題の対応に苦労した政府は性の問題に正面からたちむかったのである。その一つとして子どもたちが思春期に達すると積極的に性教育を行い、性を自由化した。男性と女性の性意識の違いも学校で教え、結婚前の性交渉を自由化し、性的な相性を結婚の重要な条件と考えるまでになったということであった。

 西ドイツはキリスト教の考えが支配的で、性的なものは極度に抑圧され、その結果陰で性的なもの、ポルノが氾濫する結果になった。東ドイツは経済的には西ドイツに劣るかもしれないが、性的な相性を重視して結婚するために、愛を重んじた家庭を持ち安定しているというのである。如何に愛があっても性的な関係がうまく行かなければ結婚しませんというのが、新しい東欧のトゥーランドットの考えなのである。如何に愛がわかっても性的な関係は嫌だというのである。

 日本の多くの女性も愛の重要性はわかっている。多くの女性が恋愛で相手を見つけたいし、性の重要性はわかっているが、それを結婚の最重要条件に入れる人はないだろう。日本の女性も西ドイツ並みである。

 今、日本でも結婚はしたけれども性的な関係がうまく行かないカップルは少なくない。家に帰りたくない夫が先ほどテレビで紹介されていた。そのようなカップルは愛も性生活も無くなっている。愛もあり性的関係もある、けれども一緒に居たくないカップルは沢山あるように思われる。必ずしも経済的問題ばかりでもない。ずっと一緒にいること、協力して生活を作り出すことができない。満足な性的な愛の行為は協力なくしてはありえない。協力という愛の行為が難しくなっているのではないか。性生活は愛の協力の象徴である。

 最近、タレントさんのガン開示がいくつかあった。働きすぎともいえるが、周囲に多くの男性がいながら、性を意識しないで仕事をしないといけないので、男性性や女性性を失い、バランスを崩すのではないか。タレントというロボットになってガンになるほどに無理をして働いているのではないか。ガンというのは細胞レベルでの退行ではないかと私は考えているのだが。

 ポルノの氾濫で性は汚いもの、いやらしいものと見られがちである。性といえばポルノと意識され易い。性を正面から見なくなって、性を笑うこともできなくなった。古代アメノウズメは裸で踊り、人々は笑い楽しんだ。そのようなおおらかな性を笑い飛ばす豊かさを私たちは失っている。私たちの目の前にはむき出しの性があり美がある。けれども、性と愛は必ずしも結びつかなくなった。女性は性的な魅力を美的に出したから、賞賛以外のことはできにくくなくなった。トゥーランドットのような女性は賞賛を求め、つねに孤独である。その延長上に境界例と呼ばれる人たちが出てくる。

 性は愛であると東欧の女性は考えている、性的な相性が大切であると考える。健康で幸せな性意識が育ってほしい。性が自由化された今日、何と不自由で淋しい性生活になっていることよと驚く古い世代の私である。

 

 

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