健全な精神に健全な身体は宿る

 「健全な身体に健全な精神は宿る」と私は中学のときオリンピックの精神として習ったように思う。それは私の思い違いにしても、健全な身体に健全な精神は宿るという考えは多くの人の神話になっている。健康な身体を作って気持ちよく生きたいというのが人々の願いである。健康食品の広告が流行り売れるのはそのためであろう。

 ところが健康法というのが私にさっぱりピンとこない。私の肥満を治すには毎日一時間歩くといいに決まっている。ところがそれができない。私の行きつけのお医者さんは毎朝奥さんと二人で一時間ほど歩いているらしい。私はそんな決まりきったことはできない。それができないのが悔しいので、健康な身体を持っても生きがいが無かったら仕方が無いではないかと思うことにしている。丈夫い身体で呆けてしまっては周囲の人に迷惑である。それよりもしっかりした精神を持って生きる方に自分を賭けたいと思う。体が丈夫いよりも、精神が活動的な方が人生が面白いのではないか。

 鶴見俊輔さんは毎月岩波の図書に1ページのエッセイを書いている。毎回すごく面白い。豊な人間関係と自由な精神から出てくる個性的な発想に感心している。鶴見さんは幼い頃から自由奔放に生きてこられたので、いろいろな出会いや経験と自由な発想があったのである。

 私は悪いことはしてはいけないという変な道徳観に縛られていたから自由ではなかった。自由になったのはここ10年ではないか。10年でも私は十分に楽しい。

 自由な発想の中で自分を生かし、人を生かすような道を見つけていけばそこに健康な生活が開かれるような気がする。

 自由な発想で生きると自分にも周りの人にも責任が生じてくる。周りの人にも、クライエントにも責任をもって対応していると、自分の心が健康になる気がする。生きる道を見つけることが最も健康への近道ではないかと思っていた。

 最近忙しいのだけれど、旅の列車の中でサン・テクジュペリの『人間の土地』を読んだ。幸か不幸か、列車は倒木が架線に引っ掛かって2時間半も木曽福島の手前で停車し、帰宅はその分遅れたけれど、静かな読書の時間ができた。その時間に私はこのような内容の文章に出会った。

 それはある園丁、公園で草木の手入れをする人の死の話である。彼が語るには昔は土地を掘り返すのが苦痛だった。リュウマチで足が痛くて、奴隷のような仕事を呪った。ところがこの頃は土地を掘って、掘って、掘りぬきたいほどである。土地を耕すのがいい気持ちである。土地を掘っていると気が楽だ。それに私がしなかったら畑が荒地になってしまう。自分が耕さなかったら地球が荒地になってしまうように思えるのだと彼は語った。彼は愛によってあらゆる土地に、あらゆる木につながっていた。彼こそは仁者であり、知者であり、王者であったのだとサン・テクジュペリは書いている。

 ここを読んで畑を耕すのも自分の世界に対するかかわりであり、自分の責任であると引き受けることによって、苦痛が喜びに変わったのである。

 

 自分の生きる道を見つけることが大切なのである。病気を治してから働くのではなく、働く道を見つけることが先だ。生きるべき道を見つけると病気が良くなるのではないか。健全な精神を持つと健全な身体が甦ってくると考えたい。それが私の健康法である。健全な精神に健全な身体が甦る。

 

 

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