面接室で自分は70歳を超えたのだと意識するようになった。70歳になったのだからもっと経験とそこから学んだことではっきりものを言っても良いのではないかと思うようになった。
私は大学に居たとき、特に女子大にいた間、私は年を意識するものの、自分は心理臨床のスタッフの一員に過ぎないと考えることが多かった。私は相談室長をしていたが、私の仕事は相談室で働く人の勤務時間票にサインすることが主で、自分の経験と知識を伝える機会は無かった。修了して行った院生の多くが私をほとんど意見を言わない人と評価していたようである。相談室で私は年長者の一人であったし、若い人々よりも経験は豊かだったと思うが、私の経験と知識を尊重してもらっているという感じを持つことは稀であった。私はいつも7人のスタッフの一人であり、自分の意見がその年齢の故に特に大切にされると感じたことはなく、いつも7分の1の時間であったと思う。心理臨床では特に客観的に見ることが大切なので、意見を平等に扱うことは大切なのだが、「院生の皆さんは先生方の意見を聴いて自分で考えなさい」と言われると、自分の経験と知識は7分の1なのだと一層強く意識した。その状況では特に女性は自分の指導教員の意見を尊重してしまうのだ。自分の感覚と考えは心の奥に仕舞ってしまい、いくら西村先生の意見が大切と思っても、心の奥に仕舞われたものは出てこないのである。
年配の先生をあまり奉らない態度は学園紛争後のものである。大人の経験と知識、大人の知恵は学園紛争で打ち砕かれてしまった。そして若い人も年配者も同列で競争するようになった。
古い権威的なものが正しいとは限らないが、こと心理臨床の領域では経験と勘が物言う世界だと思う。
若い人は今流行の心理学的な知識を覚え、それで仕事をしている。新しく学んだ知識が一番良いと思っているのではないか。それは単に心理学の本で学んだ知識である。多くの臨床心理士がそのレベルで仕事をしている。
今教育分析を受け、スーパービジョンに毎週通って指導を受けるなどということは流行らないし、教育分析のできる人すらすくなくなってしまった。日本にもチューリッヒのユング研究所で資格を取ってきた分析家は多くなった。その人たちのところに毎週通って、フロイトやユングがやったように分析を受ける人はどれほどいるだろうか。心理臨床の技術が経験と訓練の賜物であること知らない。相談室を訪れる人も臨床心理士は誰も同じに見えているのではないか。でも、実際はすごく違うのである。一生カウンセリングで生きていこうという人と、とりあえずしばらくはアルバイトで過ごしていこうというカウンセラーの面接に臨むその意気込みの違いは大きいのではないか。そこを見ないと皆さん損をしますよ。
私は教育分析を受けた古い世代の心理臨床家である。そして50年の臨床経験を積んだ。だからその一端から私見をちょっと述べても良いのではないかと思って、カウンセリングの面接では率直な意見を述べるようにしている。それができるのは年の功であると思いながら意見を出す。そうするとそれが相手の心に届いているようなのだ。これで素直で率直な心の対話のカウンセリングになっているようである。
これが図に乗ってしまうと、誰にも受け入れられないものになるが、相手に押し付けることなく対話の姿勢を保つ限り、そして、このような面接を誰か他の人が少しでも知る限り、それほどの逸脱無しにやっていけるのではないかと思っている。
女子大を辞め、私はやっと今自分の年齢相応の仕事を相談室でしているのではないかと思う。その土台は年の功である。年の功の土台の上での仕事は自由で、何ものにも捉われないと感じる。相談室に来た人も私の内面の意識につられて本心を出すと意外に心の深層が出てくる。私は今とても心理臨床の仕事が面白い。こういう面白い仕事をほかの人にもしてほしいと思う。世界各地は今ハイビジョンで見ることができるけれど、心の世界は私たちしか見ることのできない密かな楽しみである。