聞き手の圧力

 北海道応用心理学教室でのセミナー後半、1時間で4人の方の夢を分析した。公開の場での初めての個人分析であった。夢を見たときの周囲の個人的な状況や連想を話してもらって、私の即座の解釈を述べた。その解釈は概ね聴衆の理解が得られるようなものになっていたのではなかろうか。大勢の聴衆を前にしているので、聴衆の圧力によって私の中から出てきたものを私は述べることになる。普通一対一での面接では分析家の人格が圧力としてのしかかる。大勢の聴衆だとそれが何倍にも膨れ上がる。聴衆の中にはとても純粋な人が居られるからいい加減なことや嘘は通じない。大声に叫ぶ主張よりも、内的な深みから出てくる低い声の方がよく心に届くだろう。

 話された夢は印象的なもので、その夢は忘れられず、何か心に引っかかっていたものだ。その頃の生活状況を話してもらって、私は大勢の聴衆を前に私は一心に心をめぐらす。私の目の前には私が何を言うか待っている大勢の人がいる。私に大きな圧力がかかっている。心の中に夢の意味が浮かび上がる。それをさらに聴衆に言ってよいものかどうか検討し、言い方を考える。社会的に受け入れられる範囲内に来たとき、正直に言うとみんなに通じたようだ。あまりに個人的にあ過ぎても、私たちみんながわかるならば、相当のことまで倫理的に許されるのではなかろうか。夢はそのような可能性を前提に意識に残るのではなかろうか。夢の源泉である類心的な心は極めて低い次元の、動物的な心でありながら、それだからこそすべての人に受け入れられるような内容にまとめる機能が備わっているのではなかろうか。

 面と向って話を聞いていると、私のなかに今まで培った意識的な考えよりも豊であり、活字で表現される意見よりも明晰であるように思われる。

 思えば、河合隼雄先生は、おそらく私が聴衆の圧力と思う以上の、世間の人々の代表、あるいは、社会的なの人間の一人としての責任を感じながら聞いておられたのではないか。だから、面接を受けるほうも謙虚になり、先生自身も普遍的な心を持った人間として慎重に話を聞いておられたのではなかろうか。

 それに引き比べ、今までの自分を省みると、単なるユング的な心理学によった心理療法の技術者ではなかったのではなかろうか。そこには普遍的な心をもった人間の影が明らかに薄かったと反省する。