希望の持てない社会と人間の商品化

 一昔前になるが、人材教育ということが気になったことがあった。社会に役に立つ人材、企業に役に立つ人材という言葉が教育界でも使われた。このとき人間は人材かと私は思ったのだった。

 人格教育ではなく、人材教育だった。人の能力を開発し、できる人を育てることが目標とされた。今でも、能力開発ということが叫ばれ、人は自分の能力開発を目指している。高い能力があれば、高収入が得られ、豊な生活ができるというわけである。

 そういう考え方で良いのかと私は考えた。そのような心配をしているとき、マンパワーという言葉が入ってきた。

 その頃ある企業のカウンセラーをしていた。その会社は大量にリストラをするために私たちカウンセラーを雇った。その結果、社員は少なくなったが、マンパワーからやってくる女子社員が仕事をするようになった。その人たちは私たちカウンセラーがかかわることはなかった。その人たちは会社の福利厚生の外にあるから、かかわれないのである。

 マンパワーという不思議な存在がそのうちにどんどん広がり始めた。そのときには私は企業カウンセラーを辞めていたので、相談室や関係者から話を聞くことになった。

人材派遣会社が、公的な職業安定所に代わって人材を企業に提供するようになったのだ。企業がこのような人材が欲しいというと、それに対応する人材を派遣してくれる会社ができたのである。

 日本の多くの物を扱う商社は規模を縮小したが、代わりに人材という能力のある人間を提供する商社ができてきたのである。人材派遣会社は能力のある人を企業に提供する。その代わりに企業は人材派遣会社にお金を払い、人材派遣会社は派遣したその人に給料を払うのであろう。

 しかし、これを裏から見れば、人材派遣会社と相手先の企業は人間を売り買いしている。資本主義の企業は人間まで商品化してしまったのではないか。サラリーマンは能力と時間を企業に売っているのだという認識は労働運動が盛んな時期はなった。それがさらに進んで、能力のあるなしで、人が商品化され、売り買いされるようになったのだ。働く人は会社からお金を給料として受け取っているけれどもその裏では、商品取引と同じことが人間について行われているのである。

 その結果、多くの若者が商品化されてしまったのではないか。商品化された派遣労働者、あるいは、短期の臨時雇用者は単なる一時の人材でしかなく、人として扱われていないのではないか。企業のバランスシート上、マイナスに出た分は過剰在庫として商品を削るように消されてしまう。ここでは人の希望は儚いものでしかない。

 昔も仕事がなくなり暇を出されることはあっただろう。しかし、その下地にもっと人間的な雇用関係があったので人間的な配慮がなされたであろう。私たちは信頼の上に立って働いていたのではないか。それが能力重視の人材として扱われるようになったとき、人間性も失ってしまったのではなかろうか。

 

 今の世の中で人格という徳はあまり省みられなくなった。その点河合隼雄先生は人格重視の人であった。その先生もあちらへ逝かれてしまった。