生きるというフィロソフィー 自縄自縛から逃れる

 自縄自縛と書いてみたらなんだかとても古めかしい。4文字熟語ははやらなくなったらしい。自分で綯った縄で自分を縛る、つまり、自分が言ったことで動きが取れなくなることである。言葉が氾濫するこの時代には言葉の拘束力は弱くなった。箱庭療法を辞めますと声高に宣言した箱庭療法学会元理事長が今なお一層元気に箱庭療法学会に胸を張って出てくる時代である。言葉に縛られない自由な世の中になった。言葉やフィロソフィーよりも生きる意欲が重視される時代になったのだ。哲学は必要なくなり、むしろ邪魔になって来たのではなかろうか。

 自縄自縛は全く通用しなくなった。そういう今日においてカウンセリングの実際には自分の言葉で自分を縛り動きが不自由になっている人が多くいるように思える。自分もそうである。

 自縄、自分で綯った縄に相当する言葉、それは自分のフィロソフィーである。自分のフィロソフィーに拠って生きると自分の個性が出るように思う。河合隼雄先生に拠っていると、精神分析には寄り付きにくくなり、精神分析のいろいろな新しい考えは私には入ってこない。自分は、中国の武人で詩人の文天祥の如く二夫にまみえず、河合派で行こうと思ったのだったが、果たしてそれでよいだろうか。私は古い時代に生きる人間であると感じながら、この先新しい時代をどのように生きるべきかと考える。

河合派を作って、そのフィロソフィーを守っていると動きが取れなくなり、私の周りの人も同じ運命に引きずり込まれ損をするかもしれない。私は一人ではないから考えなければならない。

 

 カウンセリングでも言葉を大切にする人がいる。今日の面接内容をキチンと言葉でまとめて締めくくる。今日の段階はこのような思い、考えでしたねと。次にはどうなるでしょうという疑問符がついているところが面白い。今の段階をまとめて次への変化を促しているのである。一つの考えや態度から次の新しい思いや考えを見つけるのがカウンセリングであろう。

 私は、カウンセリングで率直に意見を述べるようになった。むしろ率直に意見を述べることによって、相手の率直な意見を引き出したいと思うのである。言葉や意見にとらわれていると、心の会話ができない。

 人の生き方として、今こうしか生きられないと考えている。この生き方からどうにも遁れようが無い。こうしか生きられないという悲劇的なフィロソフィーに縛られているとしたら苦しいだろう。

 そのフィロソフィーを脱ぎ捨てて、生きようとするところに新しいフィロソフィーが出てくるのではないか。新しいフィロソフィーはどうしたらものにできるのか、それが問題である。

 先にあげた、箱庭療法を辞めると宣言し益々箱庭療法に熱を上げる先生のフィロソフィーは何か、それは新しいフィロソフィーである。何事も前向きに生きるという現代的なフィロソフィーであろう。「私は生きたい」というとき誰も邪魔をすることができないのである。そこに道が開かれる。

 

 みなさん、フィロソフィーはどうであれ、生きたいという心を持ちましょう。