私のなかの狂気(潜在的精神病)

 この前潜在的精神病に触れた。さらに私のなかのパラノイアにつて述べた。そこでさらに深めて人間の狂気について考えておきたい。

 ある精神科医が、ユングは明らかに精神病、つまり統合失調症だったと言われるのを聞いたことがある。河合隼雄先生はどうか。先生は、自分がなるとしたら精神病質ではないかと言っておられた。先生はご自身の中にそんな異常を感じていられたのだと思う。精神病質といえば病気ではないが、DSMに照らせば人格障害ということになる。このなかには犯罪が入る。犯罪者になるとしたらどんな犯罪者か想像できますか。先生は多面性を持った方だから、多重人格的なものを感じていられたのだと思う。それを現実には「うそつきクラブ会長」として実現しておられた。そこまで述べると、先生の潜在的人格障害についても少し感じていただけるだろう。

 私たちは、自分は正常だと思っていて、決して狂気とは縁がないと思っている。今でこそ、多くの人が気軽に神経科のクリニック行くが、これが精神科のクリニックに行くというとあまり良い気がしない。だから、多くの先生が心療科という言葉を使っている。誰もが、自分のなかに精神的な異常を見るのは嫌だから、心療科とやんわりといくのである。

 てんかんの専門医に聞くと誰でもてんかんになる可能性は持っているということである。てんかん誘発剤を注入しながら脳波を取ると、潜在的にてんかんを持っている人はてんかん発作を示す脳波が出てくるというわけである。普通の人はその閾値が高いので中々てんかんが起こりにくいというわけである。

 以前に私は潜在的にパラノイアではないかと書いた。しかし、ある職場に入ったとき私はひどい皮膚炎になり、手指に汗包ようの湿疹が沢山できた。手に汗を握るのとは反対に汗が出なくなったのである。それは、今思えば、ステロイドでさらに悪化したように思われる。ある人に言われて、ステロイドを止めて良くなり始めたが。

 不適応の障害が皮膚炎で発現した感じである。皮膚は外部と接触するところでそこに炎症が起こるという形で障害が発生したものである。私の不適応は精神障害ではなく、身体疾患として発現したと考えられる。このような精神的なストレスが身体疾患として発現するものを心身症と呼んだが、その名称も最近は使われないようになった。何故だろう。

 やはり、身体疾患として出てきたものの裏に精神疾患を見るのは嫌なのだ。私の皮膚疾患が私の精神的な弱さからきていると考えるのは自分だけでなく人も嫌なのだろうと思う。精神的な障害はみんな隠しておきたいし、触れたくないのだと思う。

 病気がストレスによって起こることは誰しも知っている。そのストレスの大部分は心理的な、精神的なストレスである。身体的なストレスで病気になるのは過労死や生活習慣病などではなかろうか。精神的ストレスによって病気が起こると考えると、癌でさえもストレス病だという人も出てくる。頑固に頑張る人が癌になるようなので、ストレス病といっても良いと私は個人的に思っている。

 DSM診断基準のように状態像で病気を判断していると、夏目漱石のようにうつ病と胃潰瘍を交代に反復するものは統一的に考えにくい。私が尊敬していた大原貢先生はそのような複雑な病気に関心を持って研究しておられた。てんかんが良くなったら非定型精神病になり、それが良くなったらてんかんに戻るという交代現象から精神疾患と身体的な病気との関連を見ておられたのである。そういう観点から見るとうつ病と胃潰瘍は、根は同じもので、発現様式が異なるものと考えられる。同様に私の皮膚炎も新しい職場への精神的適応障害の交代現象である。新しい職場に入って精神的にダウンする例は少なくない。私は自我が弱いから皮膚炎という形でダウンした。仕事は休まなくて済んだが、両手に手袋をして過ごしていたので恥ずかしい姿をさらしていた。私の異常は外から丸見えになっていたのである。

 皮膚炎は文字通り皮膚の炎症で、皮膚が怒っているのだ。私は心の中で怒りを感じることにした。それとステロイドを止めた時期とが並行して、急速に皮膚の炎症は消えていった。

 私の中にあるパラノイアは自己中心性から発現する。自分が一番正しいと思いがちで、すぐに感情的になる。正しいとか間違っているとか感情的に判断するから怒り易い。それを適切に表現できないところに問題がある。感情的になっているから、冷静に客観的にものごとを見ることが不得手である。正しい方に与していると思っているから相手の反発を招きやすい。損な性格である。

 河合隼雄先生も同じような傾向があったと思うが、先生は決して喧嘩をしないという原則を堅持しおられた。嫌な場面に臨むときは前もってそれに対する怒りを意識化して行かれるので、嫌な人にもニコニコと笑顔で会うことができたのだと思う。冗談で煙幕を張ることも特異だった。後で深く愚痴られることはほとんど無かったように思う。相当に冷静で客観的だったのだ。だから常に血圧が高く、私はその点を心配していた。

私たちは常に内面にこのような狂気を抱えて生きているのではないか。

 司馬遼太郎さんは小説家、そして日本文化や日本文化に関係の深い外国文化の研究者として自分の分を守っていられて、政には関与しないという態度を堅持しておられた。だから人間関係の問題はなかったと思われるが、自分の分を守っての仕事は頑固に頑張られたので、癌になられたような気がしてならない。人は頑張るとどこかにアンバランスなところが生じる。そのアンバランスが病気である。そのアンバランスが命にかかわるかどうかで神経症レベルか精神病レベルかが分かれる。命にかかわる方は病的なのだと考える。

 

 このように考えるのもまた私の妄想、パラノイアのせいである。パラノイアにも神経症レベルと病的レベルと二つあるのではないか。さて、私はどちらであろう。中にあるものが病的な方が、苦しいけれども、人生は面白いのではなかろうか。長生きはしないけれど。 さて、みなさんはどちらを選びますか。

 

 

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