妄想や幻覚は孤独になって疲労したときに出てくるものであると先に書いた。先日山岳遭難のテレビ番組を見たが、道に迷って孤独になり疲労したとき幻覚が出てきたとある主婦が述べていた。人が現実との関係に疲労し、客観的に判断できなくなったときに妄想や幻覚が出てくるとしたら、それは現実との関係の空白を埋めるために出てくるのであるから人の存在に欠かせないものと考える。もし妄想や幻覚を取り除くとしたら、その空白を何かで補わなくてはならないはずだ。現実との生きた関係を取り戻さず、妄想や幻覚だけを病的なものだとして取り除くと、その空白は一体どうなるのであろう。
こういう観点から、私は心理面接では、妄想や幻覚は取り除かない方が得策であると考えるようになった。症状は苦しい状況を補償するように出てきているのだから、それを除くとすれば、人為的にそれに代わるもの提供しなければならない。精神医療は向精神薬の作用で補おうとする。向精神薬がよりよく生きるための何かを提供してくれるなら良いが、単に意識水準を低下させ、不安を少なくすることで症状を消しているとしたら、むしろ生きる機能を退化させて安定を得ているに過ぎないことになる。
これに対して、心理面接は現実の社会的な関係を広げ、現実をより生き易くして態勢を立て直そうとするものである。
自我防衛の観点から見れば、強迫症状は自分で自分を安定させようとする機能であり、抑うつはより自分らしく創造的にいきる必要を示唆しており、不安発作は拠り所となる頼れる人あるいは家の発見を必要としていることを示唆している。対人恐怖は人とのかかわりを安心して持ちたいという気持ちの表れであると考えてみると症状の意味が良くわかる。それらの症状は無くすよりも、その人が必要としているもの補う方がよりよく生きることにつながる。症状を取り去ることよりも、よりよく生きることが大切であると私は考える。生きる方へ進めば、症状は自然に弱まるのではなかろうか。
私は先の某大学院集中講義で、やせ症は治らないと言って院生を驚かせた。治らないというのは言いすぎで、たまに治ることもある。その講義で青森の加川先生に発表していただいた事例に見られるように時に死線をさまよう様な危険が伴うこともある。それでもやせ症の多くが基本的な性格は変わらないのではなかろうか。やせ願望と強迫的な性格を持ちながら、うまく生きていく生き方を見つけてしあわせを見出すのである。
精神医学は病気を治そうとする。だから心理療法を行うのである。それに対して、私たち臨床心理士は心理面接をして、自分に背負わされた偏った性格をもって、人びととの関係の中により良く生きるための道を見つけようと努力するのである。その努力もこうしたら良いという方法はない。夢や箱庭、時にはコラージュを作りながら何とか生きる道を見出せるように努力するのである。
この際、夢や箱庭やコラージュ法はあまり一所懸命にならず楽しみながらやるところが面白い。夢や箱庭やコラージュ法は一生懸命に生真面目にやるとうまく行かない。楽しんで面白半分にやることが大切である。好きなことを一所懸命にやるということが適切かもしれない。そうすると何となくうまく生き方が整ってくるのではないか。
(以上に述べたことは以前にも述べていると思う。再度読む人には申し訳ないが、気にかかったので改めに述べた。それは私たち臨床心理士が、治療ではなく、生きるということにかかわっていることを改めて強調したかったからである。)