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見えているもの

 少し前のことだが、たまたま地下鉄の駅の近くを車で通り過ぎることがあった。平日の夕方で、電車が到着して間もなかったのだろう、駅の出口から多くの人が出てくる。その中にきれいなピンク色の服を着ている女性がいた。スカートと上着、両方ともピンクだが色合いが異なり、スカートの方が少し濃い色だ。特別派手な感じではない。おそらく50代のその女性が着ていてもしっくりくる、穏やかな感じの色だ。しかしなぜかその色に妙に目を引かれた。ちょうど赤信号で停車中だったこともあり、その女性が歩き去っていくのをしばらく目で追ったほどだ。

 おそらく多くの人は女性の服やその色を気にも留めなかったはずだ。知らない人が着ている服にそこまで注目することはないだろう。

 私たちの周りにはたくさんのものがある。すべてのものに気を留めていたら、情報過多でこころも頭もパンクしてしまうだろう。「選択的注意(自分にとって重要な情報だけを選び取って注意を向ける)」とか「カクテルパーティー効果(パーティーなど人がたくさんいる騒がしいところでも、自分が興味がある話には注意が向く)」などという用語もあるが、私たちは自分に関係のないこと、必要のないことは適当に切り捨て、見過ごし、聞き流しもして、関心があることだけを拾い上げて生活している。私が車の中から見つけた女性は、私にとってはなぜかインパクトのある存在だったが、同じように地下鉄の駅から出てきた人たちにとっては、ただの見知らぬ人であり、そこですれ違っただけの人であっただろう。帰宅を急ぐ人たちの目には入らないままだったかもしれない。

 臨床心理学的な視点から言えば、何に引き付けられ、何に注目し、何から目が離せなくなるのか、何を切り捨て、何から目をそらそうとしているのか、それを解明しようとしてフロイトは無意識を「発見」し、ユングはコンプレックスの理論を打ち立てたということになる。世界をどう見るか、どう見えるのかは私たちのこころのありようが大きく関わっていると考える。

 私が見て体験している世界は唯一絶対のものではない。私が自分で拾い上げたもので作り上げている世界であって、他の人の見ている世界とは異なる。同じ人に出会っても、その人にどんな印象をいだくかは人によって異なる。同じ出来事に遭遇しても体験の仕方はそれぞれだ。

 私たちは同じものを見ているようでいて、実は全く違ったものを見ている。そのことを考えると、改めて共感の難しさを意識するが、同時に、だからこそ人と話し合い、理解し、つながっていくことの不思議さ、おもしろさも生まれてくるのだと思う。

 

 

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