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あお みどり

 以前、外国から来た知人になぜ実際の信号の色は緑なのに「青」信号と言うのか、と聞かれて困ったことがある。野菜は緑色でも「青物」「青菜」と言うし、緑色だけど「青汁」だ、青と緑は近い色で、日本では緑のものに対して青という言葉を使うことに違和感がないのかもしれないなど、あれこれと推測して話してみたが、結局、相手を納得させることはできなかった。緑は緑で青は青、違う色で、それを一緒にするのはおかしいという気持ちがぬぐえないようだった。ちなみに彼の国の言葉では「緑信号」と言う。

 改めて調べてみると同じような疑問を持つ人は結構いるようで、NHKの番組でもこの疑問が取り上げられたことがあるらしい。ネットで得た情報によると、平安時代までは緑は色を表すのではなく「みずみずしさ」を表す言葉だったそうだ。さらにやはり緑は「青」の一部として認識されていたという。美しくつやつやとした黒髪を誉めるのに「緑の黒髪」という表現があったり、赤ん坊のことを「みどりご」と言ったりするが、これらもみずみずしさという緑のもともとの意味からきているらしい。

 緑という言葉が色を指し示すようになったのは平安時代末期あたりだという。それにしても1000年を経過しても「緑は緑で青は青」ではなく、なんとなく青と緑の連続性を感じて自然に「青信号」「青菜」「青虫」「青汁」という言葉を違和感なく使ってしまうことに改めて驚く。色は連続性があるものだし、どこでどう区切るか、どう名前をつけるかによって見え方が変わるものなのだろう。そう考えると同じひとつの世界を前にしていても、「青は青、緑は緑」という環境で生きてきた人と、「青信号」「青菜」を受け入れてきた人では、世界の見え方が異なるのではないか。

 今、目の前に見えている世界が唯一絶対のものではない。世界はひとつだが、それを見る人の数だけ世界が存在しているとも言える。同じ人が同じ世界を見ていても、その人のこころのありようによって世界の見え方が変わることもある。良くないことばかり続いて気持ちが落ち込んでいるような時は世界全体が意地悪でよそよそしいものに感じるし、良いことうれしいことが続けば世界は温かく親密なものに感じられる。こころのありようと外の世界のあり方はどこかで密接な関連があると言えるのではないか。

 

 

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