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やわらかければいいのでもない

長谷川泰子

 

 ゴールデンウィークは久しぶりに縄文時代の土器・土偶を見てまわる旅をした。

 以前に旅行で青森を訪れた時、観光ポスターで縄文土偶を目にし、ふらっと博物館に入ってみたところ、土器や土偶のあまりのユニークさに驚いてしまった。青森は縄文遺跡がいくつもあり、国宝に指定された土偶もあるが、当時はなんの予備知識もなく、しかしかつて教科書で見たような、縄で模様をつけたような比較的単純な土器などとは全く異なるものがたくさんあり、目を見張った。それ以来、縄文時代の土器や土偶などに魅せられて、あちこちの博物館、郷土資料館など見てまわっている。地域や年代によって表現の仕方がかなり異なっていておもしろい。

 県立博物館といった大きなところに収蔵されているものもあるが、発掘された遺跡の近くに作られている資料館に収められているものも多く、たいていは車でしか行けないような田舎や山奥にぽつんとある資料館をあちこちまわることになる。小さな町や村の資料館に行ったりするとよほど来観者が少ないのか、以前は職員の人がお茶やお菓子を出してもてなしてくれたこともあったし(どうしてここに来たんですか、などいろいろ聞かれた)、みかんを食べながらテレビを見ていた窓口の人に「お金かかるけど(入館料200円)本当にいいの?」と聞かれたりしたこともあった。開館日なのに鍵がかけてあって隣の村役場に頼んで開けてもらったこともあるし、私が入る時に職員の人が慌てて館内の電気をつけてくれたこともある。最近は縄文の土器や土偶が興味をもつ人が増えてきているようで、実際、コロナ以前に東京国立博物館であった縄文展はたくさんの人が来ていたし、あちこちの資料館でも入館者が増えているのではないかと思う。

 縄文旅の時は、ひたすらその博物館や資料館を見てまわるだけで、他の観光スポットには全く行かない。資料館などは早い時間に閉まるところも結構多く、前述のようにたいていはぽつんと離れたところにあるから、移動だけでも時間がかかってとても他のところに行く余裕はないのだ。ビジネスホテルに泊まって、そこを拠点にレンタカーであちこち移動する旅になる。

 最近は温泉がついているようなところもあり、ビジネスホテルでもいろいろなサービスがあるようだが、それでも基本的に客室のつくりにそれほど大きな差はない。チェーン展開しているようなビジネスホテルなら、なおさらどこも同じような雰囲気だ。

 ところが今回泊まったホテルでは、今までにないベッドでちょっと戸惑ってしまった。とにかくベッドがやわらかい。マットの上にさらに厚手のものが敷いてある。布団よりもやわらかくふかふかとしていて、掛け布団が間違えて敷いてあるのかと思ったほどだ。

 寝転がってみると体が沈みこんでしまう。寝返りが打ちにくく、朝起きるとちょっと体がこわばっている感じすらする。やわらかくてふかふかして気持ちがいいのかというと実際にはそうではないのだ。むしろ体をリラックスさせるには多少の硬さが必要になるのかもしれない。

 

 一時期、カウンセリングでは「受容」と「共感」が大事だと強調されたことがあった。しかし実際には受容と共感だけでなんとかなるものでもない。受容と共感を支える硬い芯のようなものが必要になる。受容できることもあれば受容できないこともある。受容すべきでないこともある。同じように、共感することもあれば、どうがんばっても共感できない、理解すらできない話だってある。そこを区別せず、のべつ幕なしに受容し共感している(あるいは、受容し共感しているふりをしている)だけでは、本当に話を聞くことにはならない。わざわざそのカウンセラーに会いに行く意味もない。

 何を受容し、何に共感するか。相談に来られた方の話を聞いて、私はどう感じているのだろうか。自分が本当に感じていることをきちんと探り当てることが重要だ。

 ただやわらかく受け止めるだけでいい、というのではない。そこでどういう対話をするかが大事なのだと考えている。

 

 

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