一段上がる

長谷川泰子

 

 先日、自宅で階段を踏み外してしまった。幸い階段の一段目だったこと、とっさに受身の姿勢をとったことなどあって、体のあちこちをぶつけはしたものの大きな怪我はしないで済んだ。ぶつけたところが数日腫れて痛い思いをしたのと、たまたま階段に置いてあったかごにあごをぶつけてちょっと出血したぐらいだ。あごのけがは正面からは見えないところで、絆創膏も目立たず済んだ。

 朝起きたばかりでよほどぼーっとしていたのか、それともお腹が空いてふらふらしていたのか。どこがどうなって踏み外すようなへまをしたのかよく分からないが、あっという間に一段目の階段を滑り落ちて、ぶざまにゴロンと転がってしまった。

 改めてしみじみと、一段上にあがるということはなかなか大変なことだと感じた。ぼけっとしていたらいけない。一段上に上がろうと思ったら、いつもと同じ足の上げ方ではだめなのだ。えいやと足を高く上げて、いつもと違う平面に着実に足を下ろさないといけない。違うステージを目指すにはそれなりの意識的な何かがいる。

 ただ、上にあがることばかりが大切なのではないだろう。同じ平面を歩くことが必要なこともあるし、時には下がることを目指すべき場合もある。ユングの本には精神的な高山病とでも言うべきものに悩まされる男性の事例がいくつか示されている。上を目指すこと、例えば高い地位に上り詰めることばかり考えて、それ以外のところに目を向けない。そういった生き方への警告とも考えられるようなものが示されても高みを目指し続け、その結果、どこかで息苦しさを感じている。こういう人にとっては、着実に下に降りていくことが重要なテーマとなるだろう。

 上にあがることも下にさがることも、そして同じ平面を歩き続けることも、どれが良くてどれが悪いというものでもない。どれも同じぐらいに大変だ。できたら大きな怪我をせず生き続けること、それが大事だ。小さくてもいい、次の一歩が踏み出せれば、どんな方向にでも足を動かすことができたなら、それでいいのかもしれない。

 

 

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