遊びの領域

長谷川泰子

 

 先日、産経新聞の「話の肖像画」というコーナーで連載されている北山修先生の記事(新聞紙上ではきたやまおさむ名義となっている)の切り抜きをもらった。北山先生は現在は白鴎大学の学長になっているのだそうで、1回目の連載では「まず学長が遊ぶ姿を見せないと」という見出しがあり、「人間の健康や心のバランスを保つためには、メシを食うだけじゃダメ。遊ばないといけないんですよ」と語っていた。

 遊ぶことの大切さはこの仕事をしている多くの先生方が強調するところだ。河合隼雄先生の「ウソツキクラブ短信」は遊びごころ溢れた本で、河合先生自ら遊びの実践を示しているとも言える。私のスーパーバイザーの先生には、心理士としてまだ駆け出しの頃に「心理学の本を読んだってなんの役にも立たない。それよりも小説を読んだり音楽を聴いたり、お芝居を観たり旅行に行ったりする方がよほど勉強になる」と言われた。当相談室の前室長の西村洲衛男先生は「良い臨床心理士になるには、良い恋愛をしておいしいものを食べてたくさん遊ぶことが大事だ」と言っていた。いかにも西村先生らしい遊びごころ満載の言い方だが、要は生きることをめいっぱい楽しめということだろう。

 せっかくなので「遊び」ということで何か書いてみようと思ったのだが、これがとても難しい。どう書いてもどこか違和感のある、納得のいかない文章になってしまう。どうしてだろうとあれこれ考えてみた結果、自分は遊ぶことが苦手であるからに違いないと思い至った。遊ぶことに難しさを感じるからこそ、十分に遊べていないからこそ、遊びについてなにか書こうとしても自分なりの意見や考えが出てこない。何をやるにも仕事的に取り組むところがあって、良い言い方をすれば真面目ということになるだろうが、行き過ぎればただの義務となる。こうなるともう遊びの入る余裕はなくなってしまう。

 カウンセリングで相談に来られる人の話を聞いていると、変化が起こる時というのは、予想外の出来事、思いがけない出会い、偶然の成り行きなどをきっかけにしていることが多いように思う。予想外のことだからこそ、はじめは受け入れることも難しく、否定的な見方しかできなかったりするのだが、後から振り返ってみると、これまで考えてもみなかったような新しい可能性・方向性との出会いであったりもする。すべてが決まりきったように動く「仕事」「義務」の中ではこういった予想外の思いがけない何か、偶然の出来事には出会えない。何がどう動くのか分からないところ、それぞれが自由に動いているところ、つまり遊びの領域にこそ、新しい何かが生まれてくるのだと思う。

 西村先生は良い臨床心理士になるためにはたくさん遊ぶことが大事だといっていたが、こういった遊びの領域にただよい遊びを満喫することで、良い偶然を捕まえる力が増すところもあるのではないだろうか。遊ぶことはどうも不得手なのだが、めいっぱい遊ばなくては。

 

 

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