コーヒーの味

長谷川泰子

 

 今朝、おいしいなぁと思いながらゆっくりとコーヒーを飲んだ。味わいながらコーヒーを飲んだのは久しぶりのような気もした。

 ここ最近はいろいろとやることが多くてばたばたとしていた。ひとつ何かを片付けても、横には次にやるべきことが山積みになっているような状態で、気持ちも落ち着かない。どれもいつまでと締め切りが決められているようなことではないのだが、片付けなければいつまでもそこにある。息つく暇もないような焦りの気持ちもあったかもしれない。毎日のコーヒーもとにかく急いで淹れて、飲んで、片付けて、というような状態だったのだが、山積みだったものも少しずつ片づいてきて、今朝になってようやくゆっくりとコーヒーを飲むようなゆとりが出てきたようだ。

 食べ物に関してはそれなりに好みはあるが、強いこだわりというほどのことはなく、基本的には何でも食べる。特にグルメでもない。おいしいものを求めてあちこち出かけるようなこともないし、目の前にあるものを何でもおいしいと思って食べてしまう。コーヒーもインスタントでないものが飲みたい、という程度だ。今朝、久しぶりにコーヒーがおいしく感じたのは、味というよりもむしろコーヒーを飲むときの状況、気持ちが大きかったように思う。

 今から30年以上前になるが、摂食障害に関して“食卓状況”がクローズアップされたことがあった。摂食障害に関しては様々な問題が要因として挙げられてきたが、そのうちのひとつに“食卓状況”があると指摘された。食事をする時・食卓を囲む時の状況、つまり、誰といつどんなふうにご飯を食べてきたのか・食べているのか、今現在だけでなく、子どもの時からの食事のあり方、食卓の雰囲気が大きく関係しているのではと言われ、そういった方面の研究・論文もしばしば見られた。

 実際、どこでどんなふうに食事を取るかは、時として何を口にするのかよりも重要になると思う。緊張する状況で食事をしなければならず、味わう余裕もなかったということを聞いたこともある。気の合わない、顔も合わせたくないような人と一緒に最高級の食事をするよりも、たいしたものでなくても、なんなら多少まずいぐらいのものであっても、仲の良い気の合う人とわいわいとしゃべりながら食べたほうが、まだおいしく感じられるような気がする。

 いつもと同じコーヒーでも、ゆとりを持ってゆっくりと飲むことができればそれだけでおいしくなるということだろう。コーヒーを飲むときは、いつも自分で豆を挽いて入れているが、これもひとつの雰囲気作り、おいしくするための仕掛けのような気もしている。と、ここまで書いてきて、岡本かの子の小説に「鮨」という、とても美しい作品があったことを思い出した。摂食障害を知るため、あるいはそれだけでなく、臨床心理学のひとつのテキストとしても必読の小説のように思う。今は電子書籍、青空文庫でも読めるようだ。興味がある方は読んでみてください。

 

 

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