間違いの意味

長谷川泰子

 

 相談室のカーテンを替えることにした。今までのものは色も褪せて汚れも目立つ。せっかくなのですべての部屋のカーテンを新調しようと決めた。

 はじめは既製品のカーテンを買えばいいと思ったのだが、ちょうどいい寸法のものが既製品にはないのである。既製品のものを自分で直すという手もあるが、すべてのカーテンのお直しも面倒なので、思い切ってオーダーすることにした。今だとネットでオーダーして買うこともできるが、カーテンを買い替えるなんてめったにしないことだし、やはり実際の生地を見て気に入ったものを選びたい。1か月ぐらい前にスタッフ3人で店に行き、あれこれ意見を出しながら生地を選んでオーダーした。やはり自分たちのものを自分たちで選ぶのは楽しいし、納得のいくものが選べて、ちょっと贅沢だけどオーダーにしてよかったと思った。

 出来上がったカーテンが届き、昨日3人でカーテンを掛け替えた。スタッフ全員、相当楽しみにしていたのだが、なんとある部屋のカーテンの寸法がまるで違っていた。高さは問題ないが、幅がものすごく短く、必要な幅の半分程度しかない。あわてて控えの注文書を確認したところ、自分たちが寸法を間違えて注文していたことが分かった。オーダーなので返品もできない。再度正しいサイズで注文するしかない。

 1か月前、カーテンをオーダーするために、自分たちでサイズを測っていった。間違いがあってはいけないと念には念を入れて3回も測り、測った人とは別の人がチェックもしたうえでサイズをメモして店に行った。店でも注文票に記載されたサイズの数値を2回確認した。相当に気合を入れてカーテンを購入したのだが、なんと最初の時点、相談室で測ったサイズの1か所に数字の転記ミスがあったことが後から分かった。

 フロイトの初期の論文に「日常生活の精神病理」というものがある。日常生活のちょっとした間違い、例えば言い間違いや物忘れなどに注目し、そういったことが起こるのは偶然ではなく意味あることだと論じたものだ。フロイトが無意識を「発見」するきっかけともなった論文だと言われている。臨床心理士たるもの、間違いを単なる失敗と取るだけでは能がない。実際、これだけ確認をしたうえでの間違いなのだ。今回の出来事には無意識的なこころの動きがある、そう考えた。

 ずいぶん前のことだが、両親が自宅を新築した。その後、1年半ぐらいたったところで、父が大きな病気をした。その時に母が「家を新築したりするとこういうことが起こりやすいから、用心していたんだけどねぇ」と言ったのを覚えている。昔から例えば家の新築のような、その家にとって大きな出来事があった時には気をつけろということがよく言われていたらしい。確かに家の新築は相当にエネルギーを注ぐような大きな変化であり、変化に対応するのはいくらそれが良いことであってもおおきなストレスになりうる。実際、引っ越しや昇進、進学などをきっかけに精神的に調子を崩すようなことも珍しくはない。

 檀渓心理相談室を引き継いでもうすぐ2年になる。引き継いで半年ぐらいしてから、今まで経験したことのないひどい腰痛になり、それが最近やっと良くなったと思っていた時に今回の出来事である。はじめは焦らずゆっくり行こうと思っていたのだが、今年に入り、エアコンを買い替えたり、下駄箱を知人に作ってもらったりと、相談室内のものを新調することが続いていた。古いものを替えてなるべく使いやすく、居心地よく、と思っていたのだが、変化が急すぎたのかもしれない。今回のことは一気に変えようとするなという無意識からの警告とも考えた。

 

 というわけで、一室だけまだ古いカーテンがかかっている。すぐにでも新しくしたい、その方が気分もすっきりするのに、という気持ちもあるのだが、こういったゆっくりした移行・変化に耐えること、性急な変化を求めず時間ををかけること、ゆっくりと待つこと、そしてそのための自我の強さをもつことが引き継いでいくために必要なことなのかもしれない。

 

 

 

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