遊びと料理

長谷川泰子

 

 週末にコロッケを作った。揚げ物は片付けが面倒になるので好んでは作らないが、コロッケは例外で自分が好きなのでしばしば作る。

 料理は嫌いではない。面倒だなと思いながら始めても、野菜を切ったり何かを炒めたりしているうちに作業に集中して、いつの間にか気分転換、ストレス解消になることも多い。“好き”というのは“得意”というのとは異なって、凝った料理を作ったり、出来上がった料理を食べた人に料理上手とほめられたりするわけではない。むしろ味付けが今一つということもしばしばあって、ちょくちょく味が薄いと言われる。良く言えば慎重、悪く言えば臆病なところがあり、勢いよく調味料を入れることができない。控えめすぎる味付けになって、食べてみると自分でもちょっと物足らないと思う。分かっているけれどもなかなか直らないところだ。

 料理が他の家事より良いと思えるのは、作れば食べられるというところで、上手くできたものはもちろん、いまいちな出来だったものもなんだかんだと言いながら食べてしまってゼロになる。ふと子どもの遊びに似ているかもしれないと思った。作っては食べ、作っては食べ、その繰り返しは、例えばブロックで何か作ってはまた壊して作る、積木を積み上げては倒し、また積み上げての繰り返しと似ているような気もする。冷蔵庫にあるもので適当に何か作るようなことも、料理が上手いかどうかというより好奇心の問題ではないだろうか。これとこれを使って何か作るとどんな味になるだろうかと考えて試してみるのは、料理の腕や経験だけでなく、遊び心も必要だと思う。同じような料理、同じような遊びをしていても、毎回の変化はある。お味噌汁の具だってその時々によって変わるし、積木の積み上げ方やゲームの展開もその都度異なる。素晴らしい才能はいらないけれど、でもちょっとした空想や創造の力が必要になるところだ。抑うつ的になってくると家事、中でも料理をしたり献立を考えたりやスーパーに食材を買いに行ったりすることが難しくなる人がいるけれど、好奇心・遊び心的な心の余裕がなくなってくるからではないか。

 

 普段料理をしない人がたまにする料理が敬遠されることがある。理由はいろいろあるだろうが、大きいのは片付けの問題だと思う。作って食べてもらって満足、それでおしまいだと思って、汚れた鍋や皿などを片付けない。結局誰か別の人、多くは普段料理をしている人がやる羽目になる。作った当の本人は、やってあげたんだから感謝されて当然ぐらいに思っていたりするが、片付けることが念頭にない人が料理をすると後のことを考えて作業することがないので、余計片付けが大変になる。子どものお手伝いとしての料理なら完成して終わりなのも納得がいくが、大人のやったことの後始末をなぜやらないといけないのかと腹が立って、下手にやってもらわないほうがよっぽどまし、となってしまう。料理を完成させるだけで満足してしまっているのは、遊ぶだけ遊んで片付けしない子ども、ブロックで大きな塔を作って自慢している子どもと同じといえるかも知れない。3歳ぐらいの子どもと同じで、自我が芽生え、自分の力・能力を自分でも誇らしく思い、それを周りにも認めてもらいたい、そんな感じだろうか。

 料理の後の片付けが好き、という人はあまりいないだろう。料理しながら、あるいは料理の後の片付けは片付けでそれなりの知恵とテクニックを必要とする。言葉では伝えられない技がそこにはあるのではないか。遊び同様、小さな創造性とそれぞれの哲学が潜んでいるところかもしれない。

 

 

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