西村臨床心理学 自分とたましいをつなぐもの 改訂版

 「西村臨床心理学 自分とたましいをつなぐもの 改訂版」とタイトルが付けられていた文章です。最終更新日は2019年8月8日です。

 

 

 

西村臨床心理学 1-10 

自分とたましいをつなぐもの

 

 自分は意識する主体であり、その存在はあたかも座標軸の原点のようなもので、原点は、位置はあるが大きさはない。位置はあるから存在するという安心感の源である。点のようなもので大きさはないが意識するという機能を持っている。ものにすべて名前を付けるのも点のような自分である。自分が見る世界は限られており意識が向く一部分しか見られない。

 しかし、点のような自分さえ無くなってしまうとどうなるか。これは心理学では考えられていないが、仏教では考えられている。悟りの体験を読むと悟りの瞬間すべてが見えたと書いてある。悟りとは小我を捨てて大我になった状態であろう。自分を捨てより大きな大我に生きる瞬間、それが悟りの一種らしい。ある人は妄想みたいな体験だと言うが、妄想は長く続くけれどすべてが見えたという悟りの体験が長く続いたという記述には出会っていない。座禅をしていると一瞬だけどすべてが見えるという体験が得られるのである。自分という小我を超えると大我に至り、大我に至ると遮るものが無くすべてが見えるという感覚に至るらしい。

 全てが見えたという体験で個々のものが一つ一つ見えたのではなく、全部が区別なく見えたのではないかと推測する。この境地が観自在ではなかろうか。自在に見るというのは個々別々に見るのではなく、すべてをいっぺんに見てしまうのである。

 全てが見えたというのはものの区別のない世界が見えたのである。無分別の世界、それを仏教では真如という。それは仏の世界である。意識する小我が消えると大我の世界に入り、無分別の仏の世界にはいるのである。

 無分別でエネルギーに満ちている世界それはたましいの世界でもあると私は考えた。ご先祖様のたましい、世界にいのちが始まったときからるたましいの世界、それがご先祖様の世界、仏の世界であると私は考えた。

 たましいの世界の大我はすべてを見ている。観自在が見たものを私たちに告げ知らせるのがイメージではないかと私は思う。

 たましいの世界はまるで水の流れのようで全てをとらえること、一部分の掬い取ることも技術が要る。絵画や音楽や舞踏のような技術が必要である。私たち凡人は滝のような流れに浮かぶうたかたを見るだけである。清流のうたかたはすぐに消える。消えないあぶくは淀んだ汚い水のところにある。たましいからのメッセージは清流のうたかたのように少し出てすぐに消える。

 そのうたかたのようなイメージが小我の自分とたましいをつないでいると私は考えた。

 

 夢を見るから自分は夢を意識する。作られた箱庭を見てそこに何となく現れているイメージを感得する。夜寝ているときに見る夢はどこから現れるのであろうか。箱庭を作っているふと思いついて置いたものが意外に意味を持っていることがある。偶然そこで思いついたものに深い意味があることがある。

 意識する自分はそれを偶然だと感じるが、偶然にも必然があると感じることがある。だから偶然の必然という言葉がある。それを周易の本で読んだことがある。心の中にふと湧いてくるイメージはどこから湧いてくるのだろうか。精神分析ではそれを無意識というが、神経症を研究したフロイトはそれを個人の経験の集積と考えたが、統合失調症の研究をしたユングは人々に祖先の経験の集積と考え普遍性を加えた。

 フロイトやユングは人間の経験の集積を生きる力を別に設定し、フロイトはリビドーを、ユングは心的エネルギーを設定した。経験の集積と心的エネルギーが別になっているのである。これをどのように統合するのか私には理解できない。

 そこで私はたましいということを考えた。たましいという言葉を使って学会をしたら大先生が、最後にたましいって何ですかと質問され私もとっさに答えに窮した。心を実際的に扱う心理臨床学会では考えないことになっていたのだ。改めて説明しなければならないことであった。

 しかし、日本人なら誰でも「一寸の虫にも五分のたましい」という言葉を知っている。そう言われると納得する。説明を要しない。虫でも持っているたましい。それは何となく体のいのちのほかに生きているもの、死んでもどこかに行ってしまうものと思っている。お盆にはたましいを迎え、ご先祖とともに過ごし、またあの世へ送り返す。このたましいである。

 たましいには個別性は全くないのが本当ではないか。大和魂は世界に悲惨な戦争を引き起こした。いつそいう恐ろしい個別的なたましいが生まれ出て人々を煽動するかわからない。

 たましいは人だけでなく虫にもあり木や花にも、雑草にもある。生きものすべてにあるいのちである。生き物はたましいになってしまうと区別がなくなり、どこにあるかもわからない。日本人はたましいは浮遊しているものと考え、依り代ということを考え出した。でも、本当にそこに依るかどうかわからない。

 一番確実なのは自分の中である。たましいは自分が生きている間は自分の中にあり、死ねば焼かれた煙とともに空に漂う。昔の人は雲や霞の中にたましいはあるとかんがえた。でもわからないのがホントである。

 自分の中に生きているたましいそこから自分が本当に生きるために夢となって、ふと心に浮かぶイメージとなってメッセージを伝えてくると考えたい。

 たましいは個別性はないけれど自分とその環境を見る目を持っている。個別性が無く自分がないから偏見無く周囲をすべて見ることができる。意識する自分は個別的だから一点とその周囲しか見ることができないけれど、自分のないたましいはすべてを一瞬にして見ることができるのではないか!

 自由に見ることができること、それを仏教では「観自在」と表現している。観自在菩薩とあらゆることをいのちの立場から自由に見ることをできるひと、菩薩だから悟りに向かう人ということができる。観自在菩薩、たましいは自分の中にある。それが西村臨床心理学の根幹であり、たましいで見たものが夢として意識する自分に届く、それを尊重していくということである。

 

 

 

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