西村臨床心理学 自分とたましいをつなぐもの

 「西村臨床心理学 1-10 自分とたましいをつなぐもの」と題された文章です。このタイトルが付けられた文章は3つ残されており、今回公開したものは更新日が一番古く2019年8月1日です。あとの2つはタイトル部分に「改訂版」と書かれていました。

 内容が重複するところはありますが、残されていた3つの文章は順次すべて公開の予定です。

 

 

 

西村臨床心理学 1-10 

自分とたましいをつなぐもの

 

 夢を見るから自分は夢を意識する。作られた箱庭を見てそこに何となく現れているイメージを感得する。夜寝ているときに見る夢はどこから現れるのであろうか。箱庭を作っているふと思いついて置いたものが意外に意味を持っていることがある。偶然そこで思いついたものに深い意味があることがある。

 意識する自分はそれを偶然だと感じるが、偶然にも必然があると感じることがある。だから偶然の必然という言葉がある。それを周易の本で読んだことがある。心の中にふと湧いてくるイメージはどこから湧いてくるのだろうか。精神分析ではそれを無意識というが、神経症を研究したフロイトはそれを個人の経験の集積と考えたが、統合失調症の研究をしたユングは人々に祖先の経験の集積と考え普遍性を加えた。

 フロイトやユングは人間の経験の集積を生きる力を別に設定し、フロイトはリビドーを、ユングは心的エネルギーを設定した。経験の集積と心的エネルギーが別になっているのである。これをどのように統合するのか私には理解できない。

 そこで私はたましいということを考えた。たましいという言葉を使って学会をしたら大先生が、最後にたましいって何ですかと質問され私もとっさに答えに窮した。心を実際的に扱う心理臨床学会では考えないことになっていたのだ。改めて説明しなければならないことであった。

 しかし、日本人なら誰でも「一寸の虫にも五分のたましい」という言葉を知っている。そう言われると納得する。説明を要しない。虫でも持っているたましい。それは何となく体のいのちのほかに生きているもの、死んでもどこかに行ってしまうものと思っている。お盆にはたましいを迎え、ご先祖とともに過ごし、またあの世へ送り返す。このたましいである。

 たましいには個別性は全くないのが本当ではないか。大和魂は世界に悲惨な戦争を引き起こした。いつそいう恐ろしい個別的なたましいが生まれ出て人々を煽動するかわからない。

 たましいは人だけでなく虫にもあり木や花にも、雑草にもある。生きものすべてにあるいのちである。生き物はたましいになってしまうと区別がなくなり、どこにあるかもわからない。日本人はたましいは浮遊しているものと考え、依り代ということを考え出した。でも、本当にそこに依るかどうかわからない。

 一番確実なのは自分の中である。たましいは自分が生きている間は自分の中にあり、死ねば焼かれた煙とともに空に漂う。昔の人は雲や霞の中にたましいはあるとかんがえた。でもわからないのがホントである。

 自分の中に生きているたましいそこから自分が本当に生きるために夢となって、ふと心に浮かぶイメージとなってメッセージを伝えてくると考えたい。

 たましいは個別性はないけれど自分とその環境を見る目を持っている。個別性が無く自分がないから偏見無く周囲をすべて見ることができる。意識する自分は個別的だから一点とその周囲しか見ることができないけれど、自分のないたましいはすべてを一瞬にして見ることができるのではないか!

 自由に見ることができること、それを仏教では「観自在」と表現している。観自在菩薩とはあらゆることをいのちの立場から自由に見ることをできるひと、菩薩だから悟りに向かう人ということができる。観自在菩薩、たましいは自分の中にある。それが西村臨床心理学の根幹であり、たましいで見たものが夢として意識する自分に届く、それを尊重していくということである。

 

 

 

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