優等生コンプレックス

長谷川泰子

 

 学生時代、演劇部に所属していた。所属していたといっても、実際に演劇活動に参加したのははじめの1年ぐらいで、あとは部員ではあっても演劇活動にはまったく関係していなかった。部員に面白い人が多かったので、その人たちとの付き合いのために演劇部をやめなかっただけだ。

 当時所属していた演劇部には、芝居にはまって授業をサボりがちになり単位を落として留年する人(1年や2年の留年など珍しくはなかった)、単位が足りずに退学する(せざるを得ない)人、芝居の魅力にとりつかれ、せっかく入った大手企業を辞めてアルバイトをしながら芝居を続ける人、そんな人がいっぱいいた。

 こちらは別に深い意図も目的もなく、なんとなく面白そう、という軽い気持ちで入部しただけで、それまで生の芝居を見たこともなかった。何も知らないで演劇部に入ったが、一回やってみたら分かった。演劇は自分たちで一つの世界を一から作り上げる。そのためには大きなエネルギーを必要とする。カウンセリングを勉強したいと思って大学に入ったのに、こんなことやっていたらとてもカウンセラーにはなれない、そう思った。

 ただ、それまでの人生で出会ったこともないユニークな人たちとの関わりはとても楽しかった。自分の知らない生き方・考え方がたくさんあった。しかし、そういう人と関わっていると、妙にコンプレックスが刺激された。言われた通りに物事をこなして特別悪いことをせず(悪いことを考えない、というわけではない)、それなりに真面目に勉強して自分の目標のために大学に入った、そんな私から見ると、留年や退学などいわゆる“正規”のルートとは違う方向に進み、そこで自分の生きる道を見出して人生を楽しんでいる人たちを見ると、とてもかなわない、という思いにさせられた。

 

 小学校2年の時だったと思う、クラスであやとりが大流行した(ひょっとしたら今の若い人はあやとりを知らないかもしれない)。皆、暇さえあればあやとりをしていた。私はその頃一番前の席で、隣はみっちゃんという女の子が座っていた。帰りの会の最中、先生が話をしているときに、みっちゃんがポケットからあやとりのひもを出して机の下であやとりし始めた。本人はこっそりやっているつもりだろうが、先生の目の前なのだからすべて丸見えだ。すぐに先生にひもを取り上げられてしまった。するとみっちゃんはまたポケットから別のひもを出してまたあやとりを始めた。もちろんすぐ先生に見つかる。さすがに怒られる。ひもも取りあげられる。するとみっちゃんはすぐにまたポケットから別のひもを出し、あやとりを始めた。先生も半ば呆れながら、いい加減にしなさいと怒った。

 隣で見ていてすごいなと思った。今でも覚えているぐらいだから、相当な衝撃だったのだと思う。先生の目の前で堂々と行動し、怒られてもめげないみっちゃんの強さに心底びっくりした。こういうことは自分にはできないと一種の尊敬の念も抱いたように思う。優等生は怒られることを恐れる。

 

 優等生的な生き方は人に認められやすい。ある程度の努力は必要かもしれないが、良いと認められていることをやるのだから、クリエイティブなパワーはいらない。決められたレールの上を進んでいくだけだとまでは言わないが、誰にとっても分かりやすい道を歩いていれば行く先も見えやすく、あまり迷わず次に進んでいける。

 こんなふうに優等生的な生き方にマイナスのイメージを持つのも、自分自身が優等生的な生き方しかしてこなかったのではないかという引け目があるからだろう。

プロメテウスは盗みによって火を手にいれ、アダムとイブは食べるなと言われた木の実を食べて知恵を手に入れた。言われていたことを言われていた通りにやっているだけだったら人類にとって大事なものは手に入らなかったことになる。

 

 優等生的な生き方をしがちな自分には、革新的な発想、今あるところから一歩を踏み出す勇気はなかなか持てない。しかし仕方がない。別の人間に成り代わることはできないのだ。優等生的な生き方をする自分だからこそできることもある。一歩を踏み出すのに必要以上にためらうが、今いるところで今あるものを守ることはできる。面白い人を見れば素直にすごいと認めることもできる。自分はそうなれないからこそ、尚更、尊敬もする。そういう人から学んで少しでも前に、一歩とはいかなくても半歩でもと、優等生的にがんばることはできるかもしれない。

常識的な判断も大事だが、常識的な判断だけにとらわれずに評価できる目を持ちたいと思う。っ

 

 

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